2002年12月31日火曜日

78 「超」文章法: 2002.12.31

野口悠紀雄著「「超」文章法」
(ISBN4-12-101662-9 C1230)
を読んだ。 

私にはあまり面白くなかったが、
いくつか参考になることがあった。
要するに、人それぞれの文章作法が
あるということで、
それは、自分が見出すべきであり、
もし、その作法がまとまるものであれば、
降下すべき程度のものである。 

論理法則を忘れてしまって
文章を書いていることがよくある
という注意があった。
これは、重要な指摘であった。
私も、忘れていた。 

元の命題が真であるとき、
逆命題が必ずしも真ではない。
対偶命題は必ず真である。
裏命題(対偶命題の逆命題)は必ずしも真ではない。
たとえば、
元の命題:空は青い→真
逆命題:青いのは空である→必ずしも真ではない
対偶命題:青くないものは空ではない→真
裏命題:空でないものは青くない→必ずしも真ではない
というようになる。

2002年12月21日土曜日

70(149) 大学授業の生態誌: 2003.12.21

島田博司著「大学授業の生態誌」
(ISBN4-474-30259-4 C3037)
を斜め読みした。

生態を理解する、あるいは教員の授業努力をすること
そしてその実践例を示している。
これは重要なことである。
もちろんある提案がされている。
しかしである。
普遍的でない。
教育の普遍化は必要である。
でも、このようは提案は局所的である。
普遍的でない。
もっと一般化した理論が必要だ。
それも空論でなく、実用的なものが、
ということえお強く感じだ。
それができないのであれば、
場所ごと、地域ごとのやり方をやるしかない。
ということとは、教育の理論はいらないということである。
実践例と、実用的教材の提供をするしかない。
進歩がない。
進歩を求めたいのであれば、
普遍化である。
それができない限り教育論は不要である。

2002年12月14日土曜日

77 陽だまりの樹: 2002.12.14

手塚治虫著「陽だまりの樹」
(ISBN4-09-192051-9 C-179): 2002.12.08
(ISBN4-09-192052-7 C-179): 2002.12.09
(ISBN4-09-192053-5 C-179): 2002.12.09
(ISBN4-09-192054-3 C-179): 2002.12.11
(ISBN4-09-192055-1 C-179): 2002.12.11
(ISBN4-09-192056-X C-179): 2002.12.13
(ISBN4-09-192057-8 C-179): 2002.12.14
(ISBN4-09-192058-6 C-179): 2002.12.14
を読んだ。 

手塚治虫の3代前の先祖の話である。
幕末に、蘭学医として、生きた
先祖のはなしを、幕末の歴史上の人々
そして歴史に残らなかった人々
そんな多くの人たちの話である。
面白かった。
一気に読んでしまった。

2002年12月8日日曜日

76 あの無限、この無限、どの無限?: 2002.12.08

吉田武著「あの無限、この無限、どの無限?」
(ISBN4-532-16428-1 C0041)
を読んだ。

今回の吉田氏の著書は、
数学をねたに楽しい話題を提供するという
嗜好のものである。
お芝居調のものが18ある。
なかなか面白い嗜好である。

以前にも、ハノイの塔を題材にした
不思議な本を読んだが、
タイトルは忘れた。
確か横浜国立大学の先生が書かれていた
ような気がする。

2002年12月5日木曜日

74 アドルフに告ぐ: 2002.12.05

手塚治虫著「アドルフに告ぐ」
(1巻 ISBN4-16-811013-3 C0179):2002.11.30
(2巻 ISBN4-16-811014-1 C0179):2002.12.02
(3巻 ISBN4-16-811015-X C0179):2002.12.02
(4巻 ISBN4-16-811016-8 C0179):2002.12.04
(5巻 ISBN4-16-811017-6 C0179):2002.12.04
を読んだ。

マンガも創造的産物である。
ここにかけられた、労力を思うと、
読み捨ててしまうの惜しいような気がする。
作者は、そんなこと百も承知で創作する。
マンガとはそんなものだ。
しかし、その手軽さゆえに、
活字メディアとはちがった、
膨大な読者を有する。
そして、いまや、子供から大人まで
多くの階層にその読者はいる。

私が、子供の頃、マンガは
教育上よくないもの
というレッテルを貼られていた。
しかし、マンガにも
文学と同じように深い内容をもつもの、
活字メディアのような批判精神を持っているもの、
教育に役立つもの、
マンガでしか表現できない世界があること、
など、新興の紙メディアとして
独自の位置を確保するにあたった。
その一番の功労者、手塚治虫である。
面白かった。

2002年12月4日水曜日

75 惑星学が解いた宇宙の謎: 2002.12.04

井田茂著「惑星学が解いた宇宙の謎」
(ISBN4-89691-633-6 C0244)
を読んだ。

この本は、第一線級の研究者が書いた
最新の惑星学の普及書である。
目新しいことが、たくさん書かれていた。
非常に参考になった。
他の恒星で、惑星が発見されたたことによって、
太陽系の惑星学が個別の記載学的な
学問体系でなく、
やっと普遍的科学への歩みだしたのである。
その雰囲気が伝わる。
次は、地球学であり、
地球生命学であり、
地球知的生命学であり、
地球文明学が
普遍化していって欲しいものである。

2002年11月28日木曜日

73 2001年宇宙の旅: 2002.11.28

アーサー・C・クラーク著
「2001年宇宙の旅」
(ISBN4-15-011000-X C0197)
を読んだ。

あまりにも有名なSF小説である。
また、キューブリック監督の
映画としても有名である。
この映画を前に見たことがあった。
難解であった。
しかし、1968年に封切られた映画だが、
特撮もさることながら、
コンセプト、目指すもの高さが
年を取った私に難解であった。 
今回この小説を読んで、
再度見たくなった。
しかし、このようなエンディングになった、
SF小説を小松左京のもので読んだ記憶がある。
これころ若いころに読んだので
定かでない。 
しかし、小説にしろ、映画にしろ、
内容が充実してれば、
十分評価に値するのである。
昔のSF小説や映画は、
ともすれば、幼稚であったり、
もう達成されている技術や内容のため
陳腐に見えたり
未来なの過去の古ぼけた感じがしたりする。
そんな古さをいつまでも持たないためには、
やはり内容の斬新さ、そして充実であろう。
この小説を読んで、
現実ではすでに過ぎ去った2001年が
描かれているのだが、
われわれの技術が
まだ小説や映画まで達していないという反省や
なぜ宇宙開発を途中でやめたのか、
宇宙への挑戦は所詮冷戦の賜物だったのか、
など、われわれが歩んできた
歴史の間違いに気づかされた。 

この小説を、私は
推薦入学の学生への課題図書とした。
若い世代がどう反応するか楽しみである。

2002年11月22日金曜日

72 恐竜の足あとを追え: 2002.11.22

松川正樹・小畠郁生著
「大地の研究 恐竜の足あとを追え」
(ISBN4-251-06402-X C8345)
を読んだ。

この本は、写真も多いが、文字が多かった。
しかし、面白かった。
中里村から見つかった漣(さざまに)の地層と
その上のくぼみ。
それが何かを探る物語である。
舞台は、韓国、アメリカまで広がっていく。
面白い。
これぞ、研究する面白みである。
答えからいえば、日本で最初に見つかった
恐竜の足跡化石あったのである。
それを探る研究者の試行錯誤のあとが
よく伝えれられている。 

たぶん研究者には、
このような経験をした人がたくさんいると思う。
それを、市民にわかりやすく伝えれば、
こんな面白い、ストーリーはないと思う。
読みようによれば、
それは、ミステリーにもなるし、
サスペンスにもなるし、
ロマンスにも、大河小説、
SFにもなるかもしれない。 
こんな経験をもっと公開すべきである。 
そうすれば、科学の面白さを
より多くの人に伝えることができるはずである。
いい本であった。

ちなみに松川氏は、
私の科学教育の博士論文の主査に
なっていただく予定の人である。

2002年11月21日木曜日

71 火山大ばくはつ: 2002.11.21

Franklyn M. Braney著
「地球たんけんたい3 火山大ばくはつ」
(ISBN4-86057-033-2 C8340)
を読んだ。

なんというか、あまり関心のしない本である。
内容も系統性がないし、
翻訳もよくない。
まあ、こんな本もあるのだろう。

2002年11月20日水曜日

70 Vine Linux 20. サーバー構築ブック: 2002.11.20

堀口幹友著「Vine Linux 20. サーバー構築ブック」
(ISNB4-7561-3581-1 C3004)
を読んだ。

近々サーバーを構築使用と考えている。
そのために、Linuxの導入を考えた。
パソコン探したら、1台あったので借りた。
ハードディスクを取り替えねばならない。
初めてのことばかりだから、
大変だが、少しずつはじめていこう。

そのステップの一つがこの本である。
図書館で借りた本だが、
VineLinuxはVer2.5になっている。
現在、そのバーションの入門書を読んでいる。

69 化石はなぜおもしろい: 2002.11.20

馬場勝良著「化石はなぜおもしろい」
(ISNB4-378-03862-5)
を読んだ。

子供向けの本だがいい本である。
地質に関する本は、
子供向けには、いい本がけっこうあることが
今回、子供向けの地質の本を
集中的に読んだことからわかってきた。
しかし、もちろん、生物の本に比べれば
地質学の本は圧倒的に少ない。
でも、程度の 差はあっても、
大人向けの地質学の本が
あっていはずなのに、少ない。
このような本を書く人が少ないのだろうか。
研究者の比率でいえば、十分いるはずである。
なのに少ないのである。
もしかすると、科学普及に関して、
地質学者は手を抜いているのかもしれない。
教科書は確かにある。
でも、大人向けの普及書が、
少ないのはなさけない。
私もその責任者の一人だが、
これから頑張っていこう。

2002年11月17日日曜日

68 身近な分子たち: 2002.11.17

板倉聖宣・吉村七郎著
「サイエンスシアターシリーズ[原子分子編2]
身近な分子たち」
(ISNB4-7735-0158-8 C0340)
を読んだ。

シリーズの第2巻である。
4巻も先日読んだ。
なんとなくやろうとしていることは理解できた。
しかし、このサイエンスシアターの
本当の面白さは、
シアターに参加することではないだろうか。
私たちが、12月におこなっていた講座は、
講座に参加した人が楽しいのであって、
その時の情報、例えば、テキスト、ワークシート
映像にしても、
やはりどうしても受動的である。
聴講するとといっても、どうしても、
現地まで苦労して足を運び、
なまで見て、体験するこれが、
一番大切なことであろう。
確かに、知識は、
別の媒体で伝えられるであろう。
資料やデータも同じものが提供できるだろう。
欲している人には
それで充分まかなわれるであおる。
でも、目の前でおこることを感じること。
Live感覚。
これこそ、醍醐味、真髄、
「百聞は一見にしかず」 であろう。
やはり、別メディアとは、どうしても、
副次的なものであろう。 

ダイキシンイについて紹介あされていた。
炭素12個、水素4個、塩素4個、酸素2個からなる。
正式名称は、
2,3,7,8-テトラ・クロロ・ジベンゾ・パラジオキシン
である。
ジ(di)をダイとも英語ではいうから
ダイオキシンという。
似た構造をもつものを
すべてダイオキシンと呼んでいる 。
重い分子 だが、チリにくっついて空中を漂う。
毒性が強く、1pgでも問題になる。
アメリカ軍が除草剤をベトナム戦争で
撒いたときに不純物として含まれていた。
塩素のはいったプラスチックを
低温で燃やしても
ダイオキシンがでてくることがわかった。
ポリ塩化ビニルとポリ塩化ビニリデン
などがそうである。 
高温で燃やせは大丈夫だが、
低温だとダイオキシンがでてくる。

2002年11月15日金曜日

67 地球ってほんとうにまあるいの?: 2002.11.15

板倉聖宣著
「地球ってほんとうにまあるいの?」
という本を読んだ。

この本は、あえてカラー図版を使わずに、
白黒の絵を使っている。
だったら、文字だけで書いてもいいのに、
挿絵を使っている。
文字主体の本として、
磁石の本を著者は書いているのだから、
それにならって良かったのに。

でも、この本は面白かった。
地球が丸いのを、さまざまな視点で
捉え、説明を試みている。 
手っ取り早く、
宇宙から見た地球の写真を使えば、
それで、一目瞭然だが、
そこには、驚きも、好奇心も湧かない
ことを指摘している。
最もな指摘である。 
まず、常識を疑って、
その常識を修正して
イメージできるようなさまざまな試みをし、
そこには、昔の人の工夫も加えて、
知のプロセスをつくっている。

このような知のプロセスは、
たとえば、
小さくて見えない原子、
遅くて見えない進化、 
目では見えない電波や音
などを調べるのに役立つことである。
そしてイメージすることの
大切さを教えている。 
いい本であった。

2002年11月14日木曜日

66 固体=結晶の世界: 2002.11.14

板倉聖宣・山田正男著
「固体=結晶の世界 ミョウバンからゼオライトまで」
(ISBN4-7735-0163-4 C0340)
を読んだ。

この本は、サイエンスシアターという
公開の科学実験講座を
題材にした本である。
これは、なにも真新しいことではなく、
イギリスのクリスマスレクチャーを
筆頭に、
私たちが博物館でおこなっていた講座も
同じようなものである。

ただこのシリーズは、仮説実験授業という
板倉氏の科学に興味を持つための
授業をベースにしたもので、
授業の実践と、
多くの教員の智恵や工夫の集大成という点で
すぐれた点を持っている。
これが、知的資産の積み重ねというものであろう。
いいことを、重要なことを継続することこそ、
一つ一つは小さくても、
集めれば、力となるという実践である。
私は、集団を好まないので、
一人か、気のある人数名で、
なにか新しいことを成し遂げたいと思っている。
この本は、内容より 姿勢が勉強になった。

2002年11月6日水曜日

65 地層を調べる: 2002.11.06

馬場勝良著「地層を調べる
-たのしいフィールドワーク-」
(ISBN4-378-03888-9 C8344)
を読んだ。

内容は、小学生にも分かりやすいものである。
内容は子供たちが、
地層を調べたい
という気になるようなものである。
でも、文字中心の進め方のせいか、
もうひとつ面白みにかける。
でも、これもひとつのすすめかたであろう。
まじめに、本道をいくやり方である。
図鑑のようで、
内容も、読み物として充実しているもの
という希望は望みすぎだろうか。
でも、そのようなものができれば
と考えている。

2002年11月5日火曜日

64 浜辺のコレクション: 2002.11.05

浜口哲一・池田等著「浜辺のコレクション」
(ISBN4-577-02111-0 C8740)
を読んだ。

この本の著者浜口氏は、
平塚博物館の学芸員である。
なんどかあったことがある。
そして浜辺で漂着物を
調査しているということも聞いていた。
しかし、このような本が出しているというのは、
知らなかった。 
この本は、なかなかいい本である。
私も、北海道の川で、
このようなものができたら
いいと考えている。 

私が理想とする、
子どもから大人までの図鑑は、
以下のようなものである。
専門家が見ても納得できるほど、
資料がよくなくてはならない。
プロ並みに写真が
きれいでなければならない。
そして、それがさりげなく
見せなければならない。

2002年11月2日土曜日

63 地層はタイムカプセル: 2002.11.02

地学団体研究会編「シリーズ・自然にチャレンジ9
地層はタイムカプセル」
(ISBN4-272-44019-5 C8340)
を読んだ。
4人の子供を主人公にして、
地層を調べていく話である。
面白くよくできている。
そして、地層の基本的な調べ方が、
書いてあった。
これ自身がオリジナリティーだが、
やはり予想できるオリジナリティである。
その点が面白くない。
さかし、このような教材は、
総合学習に利用するには
ちょうどいいのかもしれない。
でも、この本は、1987年に出版されたものである。

2002年11月1日金曜日

62 空気の重さをはかるには: 2002.11.01

板倉聖宣著「いたずらはかせのかがくの本8
空気の重さをはかるには」
を読んだ。
面白い本であった。
原理がわかれば、いいのだが、
このようは意表をつくネタを
集めるのは大変だ。 
これが、科学の導入にはいいかもしれないが、
この調子で、科学全体を
話すことはできるのだろうか。
仮説実験授業とは、
それをおこなっているのだろうか。
私は、よく分からないが、
高校まで、このような理科教育を受けた
子どもは、どのような子どもになるのだろか。
楽しみな気がする。

2002年10月31日木曜日

61 原子とつきあう本: 2002.10.31

板倉聖宣著「原子とつきあう本」
を読んだ。
原子に対して、さまざなま視点でかかれた本である。
原子をひろく浅く知るためにはいい本であろう。
誰のための本だろうか。
高校生くらいなら理解できる。
子どもにはむつかしすぎる。
もしかしたら、理科教師用の本かもしれない。

60 もしも原子がみえたら: 2002.10.31

板倉聖宣著「いたずらはかせきのかがくの本7
もしも原子がみえたら」
を読んだ。
かみ砕いて書いてある。
ただし、子どもに原子のことが
どの程度、理解できるだろうか。
原子は、実在するのだが、
非常に抽象的な概念でもある。
想像力の中でつくり上げなければならない
ものでもある。
それを、どこまで子どもにできるか、
興味あるところでもある。

2002年10月29日火曜日

59 経験を盗め: 2002.10.29

糸井重里著「経験を盗め」
(ISBN4-12-003301-5 C0095)
を読んだ。

まあ、対談だから、
いろいろなことが書いてあり、
軽く楽しかった。

58 ふしぎな石 ― じしゃく: 2002.10.29

板倉聖宣著「いたずらはかせのかがくの本2
ふしぎな石 ― じしゃく 」
(ISBNなし)
を読んだ。

子供向けの本だが、
面白かった。

「いたずらに断片的な知識をはやく教えすぎると、
好奇心をおしつぶしてしまうのです」

「子どもたち自身が、自然のなかなか、
おもしろいことことがらを見つけだせるように、
自然をみるときの、
目のつけどころを教えることをねらっているのです」

「子どもたちが、自然について
いろいろななぞをもって、
しらべていく
― いわば、科学の精神を養うことを
ねらっているのです」

この本に砂鉄の産地が載っていた。
噴火湾沿いの海岸に
蘭東、花岡、胆振、日鉄八雲、国縫、
高周波鹿部、函館
である。
一度、サンプルを取ってみたいものである。

57 ぼくがあるくと 月もあるく: 2002.10.29

板倉聖宣著「ぼくがあるくと 月もあるく」
(ISBNなし)
を読んだ。
子供向けの本だが、
なんとなく不思議なことを、
答えを教えるのではなく、
自分で考えて答えを導く方法である。
もちろん、親や教師用に
詳しい説明は後ろに載せてある。
なかなか面白いほう方法論である。

2002年10月26日土曜日

56 さあいこう 川はともだち: 2002.10.26

地学団体研究会編
「シリーズ・自然にチャレンジ4
さあいこう 川はともだち」
(ISBN4-272-44014 C8340)
をよんだ。

川を素材にして、
石の調べ方がきっちりと書かれていて、
非常にわかりやすい本であった。
そして、使いやすい気がした。
学校先生が中心になってかかれた本である。
だから、学校の副読本として、最適である。 

この本は、板倉氏の著書とは、対照的な気がした。
こちらは、いかにも教科書的である。
これはこれで面白いし、
多分、子供には分かりやすいし
教師も使いやすいだろう。
でも、面白さの点では、
板倉氏の本に及ばない。
やはり本は面白くなければならない。

55 砂鉄とじしゃくのなぞ: 2002.10.26

板倉聖宣著「砂鉄とじしゃくのなぞ」
(ISBN4-7735-0154-5 C0340)
をよんだ。

面白かった。
子供向けの本はこのように
書くべきだと思った。
また、どんな本でも、
面白くなければいけないと思った。
砂鉄をめぐる、さまざなま考えや
知識、実験、経験、失敗。
どれをどう組み合わせるかは、
著者の裁量だが、
面白くなくてはいけない。
これは、一番の鉄則。
そして、ただ面白いだけでは
面白くない。
なんらかの科学する心や
科学とは面白という気持ちが
残らねばならない。
当たり前だが、
なかなかできない難しいことである。
それをこの本は思い知らせてくれた。

2002年10月21日月曜日

54 河原の石の観察と実験: 2002.10.21

馬場勝良著「河原の石の観察と実験」
(ISNB4-378-03890-0 C8344)
石の調べ方を書いた本である。
調べかたの内容の少なくとも一部は、
別の本(例えば、
自然にチャレンジ4「さあいこう 川がともだち」)
で見た内容である。
でも、馬場氏は、小学校の先生で、
わかりやすい内容となっている。
それに、実践的におこなってきた内容が
書かれているので、説得力がある。

2002年10月20日日曜日

53 河原の石ころ図鑑: 2002.10.20

渡辺一夫著「河原の石ころ図鑑」
(ISBN4-591-07321-1 C0644)を見た。
大分前に買った本だが、
面白くて、取り出しては眺めていた。
日本全国の代表的な川について、
石ころを集めている。
これは、やっている本人が
一番面白いのだろうなという気がした。
わたしは、北海道の川で
似たようなことをやるつもりである。

写真は綺麗だし、
石ころも結構よく集まっている。
でも、どこか不満が残る。
それがどこかわからない。

52 川をのぼろう 石のふるさとさがし: 2002.10.20

渡辺一夫著「川をのぼろう 石のふるさとさがし」
(ISBN4-447-00894-5)を読んだ。
酒匂川が素材に使われているが、
なかなか面白い本である。
石の話だけでなく、
川にまつわる話がいろいろ書かれている。
「酒匂川の地学散歩」を書くときには、
知らなかった。
地質学的にみると、不満が残る点もあるが、
面白い本である。

2002年10月10日木曜日

51 絵で分かる進化論: 2002.10.10

徳永幸彦著「絵で分かる進化論」
(ISBN4-06-153429-7 C3045)
を読んだ。
面白かった。
でも、市民はつらいかもしれない。
なぜなら、集団遺伝学や 遺伝的アルゴニズムの核心部が、
数式で展開されているからである。
でも、非常に分かりやすく最近の進化の一分野が理解できた。

R.C. Lewontinのいう進化の起こる条件
「Variation in heritable fitiness(VHF)」
「適応度に変異があり、かつその適応度が遺伝するとき」

「「進化」とは、「VHF」が満たされて集団にたいして
「選択」が起こる様子であると表現されます」

「「適応度」とは、「次の世代に、
どれだけ自分のコピーを残すことができるか」
を表す尺度のことです」

「遺伝する」とは、「生物のもつさまざまな性質(形質と呼びます)が、
世代を超えて伝わっていくことです」 

ダーウィンの進化のプロセスは、
「「分岐」と「絶滅」 、これが基本メカニズムです」

ダーウィンは、斉一説が生物の進化にも働いていると考えた。
「このような見方を漸進進化説(gradualism)と呼びます」

ダーウィンは「人為選択(artificial selection)」のアナロジーとして
「絶滅を起こさせる力を「自然選択(natural selection)」として
提案したのです」

自然選択は、「適者生存(suvival of the fittest)」と表現されるが、
これはトートロジー(同義反復、tautology)である。

適者生存の命題の擁護
・R.N. Brandonのテンプレート説は、
「それが正しいかどうか吟味できる代物ではない」
・「この問題は、「自己参照(self-reference)」の問題で、
今日、生物だけでなく 、数理、物理、化学を含めて
科学全体を貫く中心課題」

ネオダーウィニズムは、
「遺伝機構としてメンデル遺伝を採用し、
そして変異の源としては、
無方向性の突然変異を採用したものです」 

「進化は弁証法である」
その二つの理由
・「分類は、本来は相反する「分ける」という操作と
「まとめる」という操作を統合する作業です。
この「分ける」ことと「まとめる」ことの
つじつまを合わせる論法として、進化論がある」
・「メンデル遺伝学とダーウィン流の進化論の間の確執を
解消するすべだった」
「メンデル遺伝学は、基本的に不連続な形質の遺伝様式
を記述する営み」
「当時のダーウィン流の進化論者たちは、 
ライエルの斉一説に準拠しながら、
進化は連続な変化であるという立場をとっていたました」

2002年9月21日土曜日

50 アインシュタインをトランクに乗せて: 2002.09.21

マイケル・パタニティ著「アインシュタインをトランクに乗せて」
(ISBN4-7879-1885-9 C0097)
を読んだ。

実話だが、小説のような不思議な本であった。
1955年4月18日、アルバート・アインシュタインは、
アメリカ、プリンストン病院で息を引き取った。
遺体の解剖を担当したのは
プリンストン大学のトマス・ハーヴェイであった。
ハーヴェイは、アインシュタインの脳をホルマリン漬けにして、
40年近く自宅に保存していた。
世間の非難を受けたが、研究目的としていたが、
彼自身は研究しなかった。
脳を何人かの研究者に分配はした。
そして、40年後、彼は脳を遺族である
アインシュタインの孫娘エヴァリンに返すために
アメリカの東から西に移動することになった。
その道中をドライバーとして同行したのが著者である。
状況が面白すぎる。
でも、あとは書く側の力量の問題であろう。
私は、あまり好まない書き方であった。

アインシュタインの死ぬ少し前の言葉。
「この世界での仕事は終わった」

友人ミケーレ・ベッソを失ったときのアインシュタインの言葉。
「彼は私よりひと足早く、この奇妙な世界に別れを告げた。
だがそんなことは、全く無意味だ。
我々確信に満ちた物理学者にとって、
過去、現在、未来の境目など、
しつこい幻影くらいのものでしかない」

アインシュタインの言葉。
「宗教のない科学は不具であり、科学を伴わない宗教は盲目だ」

アインシュタインの雑誌編集者への手紙。
「私の平和主義は本能的な感覚です。
人殺しは忌まわしいことであるがゆえに、
平和を望む感覚が私をとらえて離さないのです。
私のこうした姿勢は、理論か導きだされたものではなく、
あらゆる残虐と憎しみに対する
私の深い反感を下敷きにしているのです」 

アインシュタインの1953年、ベルギー皇太后への手紙。
「齢を重ねてはじめて感じるのは、
自分がいまいる時間や場所へのはっきりとし手ごたえが、
少しずつ失われていくことです」

2002年9月16日月曜日

49 脳の方程式 いち・たす・いち: 2002.09.16

中田力著「脳の方程式 いち・たす・いち」
(ISBN4-314-00900-4 C0040)
を読んだ。
非常に面白かった。
永久保存である。

「熱力学第二法則とは、
「放って置くと、
物事はすべて確率の高い状態に向かって進んでゆく」
という万物の基本原則
(中略)
これはまた、われわれの存在する宇宙が、
ある操作を何度も何度も繰り返しながら
存在する系であることを意味している」

「太陽のみが地球に富をもたらすエネルギーを
与えてくれる存在であり、
人間はその富を奪い合っているにすぎない」

「昼。太陽からの光が地球に到達する・
これは、エントロピーの低いエネルギーの獲得である。
夜。地球から、熱が宇宙に 逃げていく。
これは、エントロピーの高いエネルギーの放出である」

「地球に昼と夜が存在するからこそ、
人類は誕生したのである」

「シャノンは「ある系の持つ不秩序の程度をもって
その系の持つ情報量」と定めたのである。
これが、シャノンのエントロピーである。
情報革命が静かにその幕を開けた瞬間であった」

「何もしなければ時間とともに情報量が減少し、
内容が不確定なものへおt変化するのである」 

「これは「目に見えるものがすぐに実体とは限らない」
という、21世紀の科学に共通した概念を示す良い例である。
そこには、脳がどう働くかも内在されている」

「科学界は数学界と法曹界との中間に位置する。
より基本数学に近い分野では、
数学同様に公理から順番に証明された事実を扱うこととなる 。
物理学などはそのよい例であある。
より法律に近い分野では法律に似通った手段を取る。
つまり、「憲法の制定」である。
医学はどちらかといえばこちらに近い」

「ヒトという種が他の哺乳類とは違った存在であるためには、
前頭前野の機能をを発揮しなければならないことである」 

「フィネアル・ゲイジはこの「人間としての条件」が
どのようなものであると教えてくれたのだろうか?
「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、
優しさを持った、責任感のある、
決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」である」

「人間は特別な教育を受けなくとも
自然と音声言語を獲得する。
サルは調音器官をもつがこの「言語獲得機能」を持たず、
歌を歌う鳥は調音器官も獲得能力も備えているが、
思考機能の発達が未熟なために高度な言語機能を持たない」

「一般的にいって、「母なる自然に逆らった人間の行為」は
悪い結果を招くことが多い」 

「人間の叡智の集約は「人がどのように生きるべきか」
かに答えを出すべきための過程であり、
その最終目標は「人間の方程式」の完成ということができる」

「人類は量子哲学の感性をもって
その英知の集大成となすのである」

「「実存の科学をバックグランドに持たない哲学」と
「目標を与える哲学が欠如した物理学」とが
派生してくる結果をなった。
哲学が理論の学問である以上、
実存の資本理論たる物理学から離れることは許されない。
掃除に人間の叡智の最終目標が「人間の方程式」である以上、
哲学を忘れた物理学に意味をもたすことはできない」 

「法律に憲法が存在するように、
科学にも憲法が存在する。
それは、母なる自然の基本法則である。
実在の物理学も脳の方程式も、
母なる自然の基本法則に違反する形では存在できない」

「「操作の反復性」は複雑系が複雑系であるための
重要な要素である」

「自然界に現れる形態のほとんどは自己形成により生まれてくる」

「ユニバーサリティとは「普遍性」と言う意味である。
「臨界点を示す系はすべてひとつの基礎理論で記述可能である」
というこの理論の基本概念を示すものとして名づけられた。
その最も重要な応用は「系の示す行動は、
系の微細単位 が示す行動の繰り返しである」
との記載である」

「脳理論は「すべての学問に精通した人たちだけに理解されること」
だけでは受け入れられない。
「すべての人に理解されること」を要求されている。
これが、進みすぎてしまった科学と人類の英知のが
最後に到達した学際性の条件でもある。
ある意味で、民主主義の結果でもある」

48 海馬: 2002.09.16

池谷祐二・糸井重里著「海馬」
(ISBN4-255-00154-5 C0095)
を読んだ。

これは、非常に勇気付けられる本であった。
それは、脳は一杯使っても大丈夫、
30歳過ぎても脳は成長するなどのと書かれているからである。

各章のまとめから
・新鮮な始点で世界をみることを意識すること
・脳の本質は、ものとものとをむすびつけること
・すっとパーをはずすと成長できる
・30歳過ぎてから頭はよくなる
・脳は疲れない
・脳は刺激がないことに耐えられない
・脳は見たいものしか見えない
・脳の成長は非常に早い
・海馬は増やせる
・旅は海馬を鍛える
・脳に逆らうことがクリエイティブ
・やり始めないと、やる気が出ない
・寝ることで記憶が整理される
・生命の危機が脳をはたらかせる
・センスは学べる
・予想以上に脳は伸びていく

「脳の能力とは、煎じ詰めれば情報の保存と情報の処理なんだ」

「脳が経験メモリーどうしの似た点を探すと、
「つながりの発見」が起こって、
急に爆発的に頭の働きがよくなっていく」

「脳の記憶の仕方にとって、
とっても大切な特色は「可塑性」のんです」 

「海馬にとっていちばんの刺激になるのが、
まさに「空間の情報」のです」

「認識を豊富にしてネットワークを密にしていく」ということが
クリエイティブな仕事というものに近づいてくヒント」

「人生においてやりかけのことだけが募ってくると、
当然、誇りは生まれないだろうと思います。
誇りを生むには、
ちょっとでも完成したものを残しておく」

47 はじめまして数学 3: 2002.09.16

吉田武著「はじめまして数学 3」
(ISBN4-344-00222-9 C0041)
を読んだ。

大分こなれてきた感じがする。
しかし、そのせいか、インパクトがだんだん少なくなってきた。
このような本は、何冊にも分けず
厚くても一冊にすべきなのだろう。
営利目的とは相反するかもしれないが、
学習するためには、
そのような決断も必要だろう。

46 大学で何を学ぶか: 2002.09.16

46 大学で何を学ぶか: 2002.09.16 
加藤諦三著「大学で何を学ぶか」
(ISBN4-334-70132-9 C0137)
を読んだ。

昔読んだ本だ。
今は、この内容を、学生に教える立場だ。
さすがにいい言葉が、ちりばめられている。

「「泳げるようになるまでは水に入らない」という者は、
永久に泳げるようになれない」
まずは、やること。 

「大学の時代は、与えられる時代ではなく、
獲得の時代だということを忘れてはいけない」

ケネディの言葉を引いている。
「アメリカの同胞諸君。
諸君の国が諸君のために何をなしうるかを問いたもうな。
諸君らが 国のために何をなしうるかを問いたまえ」
つまりは、大学で自分が何をするかを考えるべきである。

毛沢東の言葉。
「何かを成そうとする人間は、
金が無く、若くて、 かつ無名で無ければならない」
そして加藤氏はいう。
「もともと人生とは何もない。
人生を使って何をするか、
それによって、人生が大きくもなり、 小さくもなる。 
もともと人生に意味があるわけでもなく、
無意味なわけでもない。
どう生かによって人生は無意味にもなるし、意味も持つ」

「すべての人は、自分の人生をただの一度も
あやまちをおかさないで生きて死ねるものではない」
「人間にできることはどこで立ち直るか、
それともさらに進路を歪めるかの選択だろう」
「人間の価値が問われるのそこなのだ。
創造性とか発想力とかを問題にする前に、
自分の心の中の反省を明日の生活に生かせるかどうか、
それができる人間こそ、価値あると思う」

「もし自分に価値があると思っているとしたら、
その、のぼせ上がった気持ちを素直に改め、
また、自分に価値がないと思っているならば、
その劣等感を捨てないかぎり、
そこか、ぎくしゃくした人生になるだろう」

「人間の価値観がかたよるということの恐ろしさを知ってほしい。
だからこそ、大学で、立ち止まって、
いままでとはちがった動機にもとづいて
行動してみることをすすめすのである 。
ほんとうの自分を見つけるために。」

「大学で学ぶうちにつかみとるものの一つとして、
僕は人生の正しい姿勢をあげておきたい。
自分は何をめざして生き、
どう生きていけば真の生き甲斐が得られるのか。
それを四年間問いつづけて行動しつづけてほしい」

ニーチェの言葉。
「ほとんどいかなる苦しみにも、
それに意味があれば耐えられる」
「よし!人生が無意味なら私はそれに一つの意味を与えよう。
自分の手で、生き甲斐ある人生を創ろう。
もう一度! と喜び迎えるような人生をつくろう」
加藤氏はいう
「自由とは自分にとって価値のあることに
自分をささげることができるということではないだろうか。
禁欲を学ぶこと、
それも自由への道であころことを知ってほしいのである」

「自ら最終的なものとして選択した結果にあやまりがあったら、
選択をしなおせばいいのである。
そのときははっきりと自分の失敗を認めて
選択し直す、ということである」

「見栄にふるまわされず、
かえってそれをふり捨てている人間は、
他人に対して点をかせきどうなどはほとんど思わず、
ただ自分の良心に対してだけ点をかせごうと思うものだ」

「必然性は教わることであるが、
可能性は学ぶことである」

2002年9月7日土曜日

45 ロゼッタストーン解読: 2002.09.07

レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ著「ロゼッタストーン解読」
(ISBN4-10-541601-4 C0020)
を読む。
今回イギリスで見るつもりのロゼッタストーンに書かれた文字の
解読にまつわる話である。
フランス人のジャン=フランソワ・シャンポリオンが解き明かしたのであるが、
そのライバルたちからの誹謗、中傷、妨害にあいながらも、
病気と貧困に打ち勝って、
1822年、31歳のとき、ヒエログリフの解読に成功した。
彼の熱意、彼の努力、そして弱音、人間としてのシャンポリオンがわかった。
そして、彼のエジプト学に対する情熱も伝わった。

ロゼッタストーン発見の経緯は、以下のようであった。
1979年7月19日、エジプトに遠征していたナポレオンは、
上エジプトの古代遺跡の科学的研究と正確な記録のために、2つの委員会をつくった。
その日、ロゼッタの北西数kmで、荒れ果てたラシッド要塞を
フランス軍が補強をしているとき、
「崩れかけた壁を取こわしているとき、
ドプールという名の兵士が、片面に碑文のある暗緑色の石版を発見した。
作業を監督していたピエール・フランソワ・ザビエル・ブシャール中尉は、
これは何か重要なものにちがいないと考え、
上官のミッシェル=アンジュ・ランクルに報告した。
ランクルが調べたところ、
三つの異なった文字で記された三つの碑文があることがわかった。
その一つがギリシア語であることは彼にもわかった。
もうひとつはヒエログリフで、残りは未知の文字だった。
ギリシア語の碑文を訳すと、
紀元前二〇四から一八〇年までエジプトを支配した
プトレマイオス五世エピファネスをたたえる、
紀元前一九六年三月二十七日という日付のある、
神官の布告であることがわかった。
三つの碑文は同一の内容を三つの異なる文字で記したものであって、
ヒエログリフ解読の鍵になるものと思われた。」
ロゼッタストーンは、高さ1.2m、重さ750kg。
23年の歳月をかけて、解読の競争がおこなわれた。

ロゼッタストーンが大英博物館にあるのは、次のような経緯からである。
ナポレオンが急遽フランスに戻り、全権を委任されたクレベール将軍は、
「イギリス軍とエジプトからのフランス軍の撤兵について交渉し、
合意が成立し、協定が調印された。」
18ヶ月におよぶ交渉で、
「学者たちはすべての記録と大部分の収集品を持ち帰ってよいことになったが、
しかし、イギリス側は貴重なロゼッタストーンをはじめ
重要なものを没収した。」
「ロゼッタストーンは最終的に、
一八〇二年末、大英博物館に保管された」

「質素な家や宮殿は生きているあいだしか使わないが、
墓は『永遠の家』だった。」

「古代エジプト人の書記が
自分たちの言葉は永遠に消えないと確信していたように、
シャンポリオンは古代エジプト人の格言、
「未来に向けて語るべし、
それは必ず聞かれん」
を信じていたのである。」

2002年8月27日火曜日

44 はじめまして数学 2: 2002.08.27

吉田武著
「はじめまして数学 2」
(ISBN4344-00139-7 C0041)
を読んだ。
「はじめまして数学 1」 と連続している。
総ルビの面白い本である。
この本の魅力は、挿絵にもあるのかもしれない。
絵は大高郁子さんが書かれている。
また、前著の「虚数の情緒」は、
「中学生からの全方位独学法」という副題があった。
今回のキャッチコピーは、
「大人には無理でも
子供には分かる」
「子供に帰れば大名も分かる!
家族で楽しい!」 
であった。 
いい本である。

2002年8月26日月曜日

43 暦と数の話: 2002.08.26

スティーブン・ジェイ・グールド著
「暦と数の話 グールド教授の2000年問題」
(ISBN4-15-208195-3 C0045)
を読んだ。
この本は、グールドが暦の2000年問題に関して 述べたものだが、
なぜ関心を持ったのかが、よくわかった。
サヴァンで日付曜日計算家の次男ジェシィが
いたからかもしれない。
ちなみに次男のイーサンは、ジャズギターリストである。
この問題は、決着のつけようがないとしている。
しかし、この本には、暦を越えた何かが存在する。 

この本の献辞は
「当代随一の情熱的合理主義者にして
今千年紀最高の科学の代弁者
わが友カール・セーガンのすてきな思い出に本書を捧げる」

「1980年代半ばに癌で死んでいくはずだったところを生還したとき、
私は、今の世で生きる数ある喜びのうち二つだけをあげた。
『私はいろいろなことを考えた。
二人のわが子の成長をじっと見守るためだけにも
生きねばならないし、
来るべき新千年紀を目前にして
去らねばならないなんてむごすぎる』」

「当時の人々には、自分たちがあくせく働きながら生きている年が
0年なのか1ねんなのかなどかんがえたことも なかったわけだし、
10年代が9年か10年か、1世紀が99年か100年かなんてことにも
頓着していなかったのだ。
紀元前/紀元後という年代表記システムが発明されたのは
6世紀のことだったし、
ヨーロッパに普及したのはそれよりずっと後のことである。」

「私が暦の問題を愛してやまないのは、
人間が抱える癖のずべてが、
そこに縮図として表れているからである。」

2002年8月23日金曜日

42 はじめまして数学 I: 2002.08.23

吉田武著「はじめまして数学 I」
(ISBN4-344-00138-9 C0041)
を読んだ。
自然数の説明と無限、素数へとすすむ。
全ルビの本。
私が出版をしたいと考えている本と同じである。
どれほどの子供が読むかどうかより、
こんなものを与える努力が必要である。
そうすれば、どの子供かが、いつか、どこかで読んでくれて、
感動してくれるかもしれない。
そんな本を目指すべきではないだろうか。
学問とは、思わぬところが発端となるかもしれない。

2002年8月15日木曜日

41 古風堂々数学者: 2002.08.15

藤原正彦著「古風堂々数学者」
(ISBN4-06-210186-6 C0095)
を読んだ。
彼の最近の文章を集めたものだ。
彼が、重んじる武士道の精神、
国語の重要性、合理的でないが守るべきこと、
などなど、日本人が、日本が
失いつつあるものを、彼は孤軍奮闘をして
取り戻せと叫んでいる。
私も、大いに共感するところがある。

「千年後の 中学生用世界史年表の二十世紀欄にかかれるのは、
「二度の世界大戦が起こり核爆弾が投下された」
くらいのもので、 
ひどい時代との印象 は免れ得ないであろう」

「少子化自体は、急激でない限り祝うべきことと思う。
問題は少子化をもたらしている原因のほうであろう」

「大学は産業界のためにあるのではない。
学問を守り抜くには
産業界などむしろ眼中にあってはならないとさえ言える。
そんな気概がないと産業に役に立たない多くの分野は
早晩切り捨てられてしまう」

2002年8月14日水曜日

40 干し草の中の恐竜 下: 2002.08.14

スチーヴン・ジェイ・グールド著「干し草の中の恐竜 下」
(ISBN4-15-208299-2 C0045)
を読んだ。
やはり、グールドは面白い。
そして、一徹に、同じことでも、何度も
間違っている人、社会に
警告や意見を発する。
それは、どんな権威や個人に対しても同じようにおこなう。
そして、教養とユーモアが彼の身上である。
抜書きしたいところが多数あったが、
多いので、省略する。

39 カシミール3D入門: 2002.08.14

杉本智彦著「カシミール3D入門」
(ISBN4-408-00776-5 C2026)
を読んだ。
地図を3次元的に表示する機能をもっている。
そのほかにも各種の機能を持ている。
私のパソコンにもインストールしているのだが、
遅くて使いものにならない。 
たぶん、何らの調整が必要なのだろうが、
今は、おこなっている余裕がない。
暇な時か、必要に迫られた時かに挑戦してみよう。
しかし、このような高機能ソフトが無料であること、
そして、国土地理院の数値地図が無料で添付されていることに驚く。
善意と趣味というのことだけで、ここまで達成できるのである。
素晴らしいことである。

2002年8月11日日曜日

38 プロも知らない「新築」のコワサ教えます: 2002.08.11

船瀬俊介著「プロも知らない「新築」のコワサ教えます」
(ISBN4-8067-4537-5 C0077)
を読んだ。
配慮されてない、新築は怖い。 
これは、前から気づいていたのが、
ここまで、データを示されると、その恐ろしさがよくわかる。
しかし、一方、ここまで、個人が気を配るのは、
不可能な気がする。
これを、職業とする人が必要である。
本当は、それが、建築のプロであるはずである。
でも、営利に走りすぎた企業は、そんなことを配慮しない。
これが、問題である。
わたしが、「木の城たいせつ」にひかれるは、
そこの配慮している、少ない企業であるかだ。

それと、この本で、ソーラーシステムについて書いてあったが、
これが、西壁で実用的で、採算が取れるという記述があった。
これは、北海道でも検討してみる価値はある。

2002年7月29日月曜日

37 手塚治虫: 2002.07.29

大下英次著「手塚治虫-ロマン大宇宙」
(ISBN4-06-273425-7 C0195)
を読んだ。
実は、カナダに出かけているときに読みきっていた。
しかし、入力が遅れていた。

手塚治の伝記である。
彼の殺人的創作活動と
そして尽きぬアイデアと創作意欲、
そして常に最前線で漫画を書きたいという意欲。
これは、常人をはるかに凌ぐ情熱のものとになされた。
「ブッダ」を書くときの話である。

手塚は、さらにつづけた。
「仏といいう概念が、なかなかつかみにくいんですよね。
神とは、ちがうんでしょうかね」
竹尾は、自分の意見を述べた。
「仏というのは、人間の中の”命”と理解したらどうでしょうか。
”おろかな命””あらそいの命””おだやなかな命”・・・・
さまざまな”命”のなかで、清らかで力強い、
もっとも尊いものとしてあるのが仏ではないでしょうか」
手塚は、
「うーん、わたしには、信仰心がないから、
よくわからないんでしょうか」

手塚は、死については、こうブッダに語らせていた。
「死ぬということは、人間の肉体という殻から、
生命が、ただ飛び出していくだけだと思うがよい。
だから、死はなにも恐れることはない。
ほんの一瞬、とおりぬけるだけじゃ」
(中略)
ブッダが悟りを語る場面で、手塚はブッダに叫ばせていた。
「人間の心の中にこそ・・・・神がいる・・・・神が宿っているんだ!!」
竹尾は、”神”という言葉をみて手塚らしいなとおもった。
<”仏”が、”神”になっている。
でも、これが手塚先生の解釈なんだろう。
”仏性”とか”仏の生命”では、よしとしなかったんだ。
・・・きっと、手塚先生の”神”は、”仏”という概念もひっくるめた、
もっともっとおおきなものかもしれない、
あらゆる”命”、あらゆる”宇宙”をひっくるめた、
”大宇宙の生命”なんだ>

2002年7月21日日曜日

36 パイドン: 2002.07.21

プラトン著「パイドン」
(ISBN4-00-336022-2 C0110)
を読む。
「ソクラテスの弁明」と「クリトン」につづく三部作の最後のものである。
面白かった。
そして、最後の最後まで、論理の追及をする姿勢は壮絶さを感じた。
そして、ここには、弁証法、構造主義、還元主義、など
すべてがあるような気がする。

「本当に哲学のうちで、人生を過ごしてきた人は、
死に臨んで恐れを抱くことなく、
死んだ後にはあの世で最大の善を得るであろうとの
希望に燃えているのだが、
それは僕には当然のことのように思えるのだ。」
「おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、
これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、苦痛も、
なんらかの快楽も魂を悩ますことなく、
魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、
可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである」
「その人は、できるだけしいそのものによってそれぞれのものに向かい、
思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、
他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、
純粋な思惟それ自体のみを追及しようと努力する人である。」
「哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離することである。」
「これらすべての情念をそれと交換すべき唯一の正しい貨幣とは、
知恵であり、この知恵を基準にしてこれらすべての情念が売買されるならば、
あるいは、この知恵とともに売買されるならば、
その時、本当に、勇気、節制、正義、知恵を伴ったすべての真実の徳が
生ずるのではないか。」
「なせそれが生成し、滅亡し、存在するのかを、
この自然科学的な方法によっては、
知っているとはもはや確信できないのだ。
その代わり、僕は別の方法をおもいつくままに捏ねあげたのだが、
この自然科学的方法とは金輪際おさらばだ」
「それぞれの場合に、僕がもっとも強力であると判断する
ロゴスを前提として立てたうえで、
このロゴスと調和すると思われるものを真と定め、
調和しないと思われるものを真でないと定めるのだ。
問題が原因についてであれ、その他何についてであれ、同様である。」
「ただ、僕は美によってすべての美しいものは美しい、と主張するのである。
なぜなら、自分自身に対して答えるにせよ、他人に対して答えるにせよ、
これがもっとも安全確実な答えであるように僕には思われるからだ。」
「大地を支えるためには、
宇宙そのものがあらゆる方向において一様であること、
大地そのものが均衡していることで、充分なのだ。」
「いやしくも、その生涯において、
肉体にかかわるさまざまな快楽や装飾品を
自分自身にとってはかかわりのないものであり、
善よりは害をなすものと考えて、これに決別した者であるからには。
そして、学習に関わる快楽に熱中し、魂を異質の飾りによってではなく、
魂自身の飾りによって、
すなわち、節制、正義、勇気、自由、真理によって飾り、
このようにして、運命が呼ぶときにはいつでも旅立つつもりで、
ハデスへの旅を待っている者でかぎりは。」
訳者の解説より
「ソクラテスは一文字も書かなかったからだ。
ソクラテスの哲学のすべては対話だった。
すなわち、「哲学する」とはかれにおいては
「対話する」ということなのであった。」
「歴史的なソクラテスが常に問い続けてきたことは
「いかに生きるべきか」という問いであり、
それはまた「自分自身の魂を配慮せよ」というよびかけでもあった。
(中略)
つまり、ソクラテスは真実の自己を求め続けていたのである。」

2002年7月17日水曜日

35 はじめての構造主義: 2002.07.17

橋爪大三郎著「はじめての構造主義」
(ISBN4-06-148898-9 C210)
読んだ。
非常にわかりやすく書いてある。
これも、多くの重要な点があったのだが、多すぎて、省略する。
この書は、永久保存である。

構造主義のおこなうとしていることが、よくわかった。
構造主義が目指したことは、
より人間に違い部分を解析的に調べることではなかったのか。
たとえば、言語学、人類学、民族学、精神学、神話、
などなど。
そして片や崩壊しつつある自然科学への結合も可能なのかもしれない。

でも、構造主義も非常に極端な還元主義ではないかと思う。
還元主義はわかりい。
でも、還元による要素から構造をつかんだとき、
その構造が、本当に真の姿なのだろうか。
自然科学が犯した過ちを、
人文科学が犯しつつあるのではないだろうか。
構造主義の祖レヴィ・ストロースによれば、
「構造主義には三つの源泉がある。
マルクス主義、地質学、それに精神分析。
これらに共通するのは、
目に視える部分の下に、
本当の秩序(構造)が隠れている、
と想定している点だ。
あるところまで調べがすすむと、急にそれがあらわれてくる。」
という。

(以下、本文よりメモ)
ソシュール「一般言語学講義」
ことばが持つ意味(言語として機能する)のに、歴史は関係ない。
ある時点で、ある範囲の人々に規則がわけもたれていれば、それで十分である。
言語の機能を知るのに、その歴史を捨象する(わざと考えないようにする)ことができる。
共時態:歴史を捨象したある時点の言語の秩序
通時態:共時態からつぎの共時態へ変化していく言語の姿
ラング:共時態の中でも人々に共通に分けもたれている規則的な部分
パロール:個々人にゆだねられている部分
言語学はまず、共時態のラングを研究対象にすべきである。
言語は、物理現象ではない。
物理現象として2つの面
言語名称目録説という面:言語の指し示す対照が物質的な存在である
言語が異なれば世界の区切り方も当然異なる。
言語の恣意性:言語が示すのは世界の実物ではなく、世界から勝手に切り取ったものである。
物理的な音声によってなりたっているという面:
言語が異なれば、どこにどういう区別を立てているかはことなってくる。区分の立て方が恣意的である。
「言語は差異のシステム」とか「対立のシステム」と表現される。
言語の恣意性を支えるのはメカニズムである。
シニフィアン:記号表現、意味するもの、能記
シニフィエ:記号内容、意味されるもの、所記
記号(シーニュ)=シニフィアン+シニフィエ
ここの言葉や記号がいかなるものかは、記号システムの内部の論理だけによって決まるので、それより外部の現象(実態)には左右されない。

音素
言語学にとって大切なのは、音を人びとがどう区別しているかである。
恣意的であるから、一種の文化、もしくは社会制度であるので、自然科学の方法ではだめである。
ヤーコブソンは、音素を弁別特性のの束と考え、音素の対立は、二項対立の組み合わせで表現できるとして。

機能主義
歴史主義、伝播主義に反対。構造主義もおなじ。
機能のみで説明する点が問題。
目的と手段の連鎖が循環論になる。
機能では説明できないことがある

理論とは、ややこしい問題に取り組むとき、思考の手助けになってくれるもの。

社会の基本的な形は、交換のシステムである。
純粋な動機(交換のための交換)にもとづくものである。

神話学の研究の手順
神話の集合:似た神話をひと束にして考える。
神話素に分割:神話の一番小さい単位に分割
対立軸の発見:神話素を貫くもの
表の作成と解釈:神話素を対立軸で並べて表にする。そこからプラスαを見出す。
レビ・ストロースの構造主義の影響
神話分析が、テキストを破壊してしま無神論の学問
テキストは表層にすぎず、本当の「構造」はその下に隠されている、とみる。
ヨーロッパの知のシステムを支える部分品
テキスト:構造主義は、テキストを読む態度を重視。同じテキストも、筋さえ通っていれば、自分流に読んでかまわない。
主体:知のシステムは主体を前提にしている。構造主義は、「構造」のような主体を超えた無意識的・集合的な現象が重要だとする。
真理:構造主義では、真理は制度だと考える。制度は、人間がかってにこしらえたものだから、時代や文化によって別物になる。唯一の真理などない。

変換(置換)によっても不変に保たれているのが、<構造>だからである。変換がつきとめられれば、<構造>もつきとめられたことになる。

神話と数学。見かけこそ似ていないが、両方とも同じ秩序を隠している。二つの制度なのだ。
「主体不関与」の文体を創始した。
主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)を包む集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することをしめした。
神話は、一定の秩序(個々の神話の間の変換関係にともなう<構造>)をもっている。この<構造>は、主体の思考によって直接とらえられないもの、「不可視」のものなのだ。

証明の発見:ギリシア人による人類史上画期的な大発明。
証明(論証)によって、知を組織できることがわかった。
ユークリッド幾何学とアリストテレスの三段論法お論理学は2000年間、適用されてきた。
何が「正しい」かは、公理(前提)をどう置くかによって決まる。

視点が移動すると、図形は別なかたちに変化する(投影変換される)。そのときでも変化しない性質(投影変換に関しても不変な性質)を、その図形の一群に共通する「骨組み」のようなものといういみで、<構造>とよぶ。<構造>と変換とは、いつでも、裏腹の関係にある。<構造>は、それらの図形の「本質」みたいなものだ。が、<構造>だけでできている図形など、どこにもない。<構造>は、目に見えない。

ゲーデルの不完全性定理
数学が完全であることを、その数学自身によって示すことができない

構造主義は、文芸批判の理念として、これまで現れたもののなかでいちばん進んだもののひとつだ。しかsh、構造主義的批判は、「作者の主体性」や「作者の言いたいこと」は括弧のなかとなる。
方法としてもパターン化されている。

レビ・ストロースによれば、
「構造主義には三つの源泉がある。マルクス主義、地質学、それに精神分析。これらに共通するのは、目に見える部分の下に、本当の秩序(構造)が隠れている、と想定している点だ。あるところまで調べが進むと、急にそれがあらわれてきる。

2002年7月15日月曜日

34 ソクラテスの弁明・クリトン: 2002.07.15

プラトンの「ソクラテスの弁明・クリトン」
(ISBN4-00-336011-7 C0110)
を読んだ。
内容もさることながら、
ソクラテスの行きかたに感銘した。
デカルトと通じるところがある。
すべてにではなく、
自分の信じることには、
命をもかけてもよいという心がけである。
今の私の励みになる。

訳者久保勉氏は、
「この世界史上類なく人格の、
人類の永遠の教師における最も意義深き、
最も光輝ある最後の幕を描いた三部曲とも
称すべき不朽の名篇である」
としている。
そして最後のひとつが、パイドンである。
パイドンでは、
この2作で明言していない、霊魂不死の信仰が肯定されている。

「かれは何も知らないのに、何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとは思っていないからである。
されば私は、少なくとも
自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、
あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。」
「死を恐れるのは、
自ら賢ならずして賢人を気取ることに外ならないからである。」

2002年7月14日日曜日

33 方法序説: 2002.07.14

デカルトの「方法序説」
(ISBN4-00-336131-8 C0110)
を読んだ。
方法序説には、前に、
「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための」
がついていた。
知らなかった。
この本は、もともと
「屈折光学、気象学、幾何学」
の大部の論文集のための序説だったそうだ。
しかし、多くの書籍を、自由は考えが制限されると考え、
出版をあきらめていたというのは、
現在からは信じられないことである。
そして、デカルトは、まわりをだましてまでも、
自分の思考の自由を願ったのだ。
そんな時代だったのだ、1600年代という時代は。
「以上の理由で、私は教師たちからの従属から開放されるとすぐに、
文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。
そしてこれからは、私自身のうちに、
あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない
学問だけを探求しようと決心し、
青春の残りをつかって次のことをした。
(中略)
だがわたしは、自分の行為をはっきりと見、
確信をもってこの人生を歩むために、
真と偽を区別することを学びたいという、
何よりも強い願望を絶えず抱いていた。」
「わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしは、
自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、と。
後になって、おかのもっとよい見解を改めて取り入れm
前と同じものでも理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるためである。」
「結局のところ、あれわえは、目覚めていようと眠っていようと、
理性の明証性による以外、
けっしてものごとを信じてはならないのである。」
「わあしは生きるために残っている時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使いまいと決心した。」

2002年7月8日月曜日

32 虚数の情緒: 2002.07.08

吉田武「虚数の情緒 中学生からの全方位独学法」
(ISBN4-486-01485-5)
を読んだ。
やっと、読めたといったほうがいいかもしれない。

去年2001年の9月、金沢の地質学会で、
書店でたまたま見つけた本である。
この本は、いつから読みはじめただろうか。
トイレに置いておいて、
毎日少しずつ読んでいった。
読むのに、半年近くかかかったのだろうか、
それほどかけて味わう値打ちのある本だと思う。
大変いい本であった。
そして、渾身の力をいれて書かれたもの
であることがよくわかった。
そして、印刷、製本以外は、
すべて、自力でおこなわれたという、
著者の執念が込められている本である。

執念ではなく、この本は、良い本である。
そして、私が、目指したい、地質学の普及書も
このようなタイプのものを目指したたい。
今回は抜書きはなしである。
永久保存の書とする。

2002年6月27日木曜日

31 哲学の教科書: 2002.06.27

中島義道「哲学の教科書」
(ISBN4-06-159481-8)
を読んだ。
久しぶりに、本を読み終えたような気がする。

この本は、哲学することの根本的なことをあつかったものである。
非常に面白かった。
そして、私はとってもじゃないが哲学者にはなれないことがわかった。
それだけでも、この本を読んだ価値があった。
この本では、哲学の根本的問題として、
死、時間、因果、意志、私、他者、存在
などについて、そのさわりを紹介している。

抜書きをしようとおもったが余りに多いのであきらめた。

2002年6月11日火曜日

30 はじめての哲学史講義: 2002.06.11

鷲田小彌太著「はじめての哲学史講義」(ISBN4-569-62171-6)を読んだ。わかりやすくさらりと哲学史を書いている。読みやすく、さらりと読めた。
デカルトの「わたしは考える。ゆえに、私は存在する」(cogito, ergo sum)は、
「第一原理。「思考」と「物質」は自立している。思考世界も、物質世界も、他に依存することなく存在している。第二原理。人間の思考はこの物質世界を「認識」(くまなく理解)することができる。第三原理。人間は平等である」
デカルトは物質世界を「明晰・判明」(clara et distincta)という方法で認識できるとした。デカルトの思考技術の方法(方法叙説)は、
「第一、即断や偏見を避け、疑う余地のないもの以外は、自分の判断の中に入れない。
第二、健闘しようとするものをできるだけ、また解決するに必要なだけ、多数の小部分に分割する。
第三、最も単純なものから、段階を踏んで、最も複雑なものに達するように、自分の思考を秩序だてて働かす。
第四、何一つ落とさなかったと確信するほど、広く健闘する」
ヒュームの哲学を、知覚一元論、不可知論、感性論をまとめ、
「1、知覚に現れない外界存在(物質)については、哲学は何もいうことができない。
2、知覚に現れた存在は、「知覚の束」である。この「知覚」は「断片」(瞬間)である。
3、知覚の断片を集合し、知覚の束に「同一性」を与え、ある秩序をもった存在にするのは、反復(繰りかえし同じことが生じる)であり、習慣である。
4、それゆえ、ある「原因」とそれに続くある「結果」の間には「必然性」はない。加工に同じことが繰りかえし起こったから、今度も同じことが起こるという蓋然性があるにすぎない。
5、ある原因から、ある結果が生じるという推論(理性認識)は、すでに過去になった知覚の連合にすぎない。理性はカームパッション(calm passion熱の冷めた感情)なのだ。
6、人間と人間集団を基本で動かすのはパッションの力(感性)である。反復、習慣、先例、伝統という形で個人と社会を基底で支配している衝動力、無意識との共同の無意識である。
私が思うに、ヒュームの考えは、「知覚の束」を集めて「同一性」を与え、「反復」であり、習慣によってある秩序が与えられている。そこには、原因と結果という必然性がなく、習慣による蓋然性しかない。というあたりは、面白い。もし、地質学から、原因と結果という必然性がきえたら、地質学という学問は成り立つか、蓋然性だけで地質学が成り立つかどうか、などというのは、面白い命題である。
「構造主義の登場によって、ヒューマニズムか反ヒューマニズムか、資本主義か社会主義か、階級闘争か否か、知か無知か、科学か神話か、等の「二項対立」的構図ではことがらが解決しないことがわかるようになります」

2002年6月3日月曜日

29 構造主義科学論の冒険: 2002.06.03

池田清彦著「構造主義科学論の冒険」(ISBN4-06-159332-3 C0140)を読んだ。久しぶりに、しっかりしたものを読んだ。
構造主義に基づいた科学論の展開である。面白かったが、やはり理解できない部分があった。
本文より。
「 理論(構造)というのは我々の頭の中にあるのであって、我々とは独立にどこかにあらかじめころがっているわけではありません。理論は外部世界の中に発見するものではなく、我々の頭の中に発見するものです。頭の中にある何かを発見することを発明と呼ぶとするれば、理論は発明されるべきものなのです。
ここで人間の脳の機能は、何らかの限界性を持つと考えれば、人間の脳が発明し得る可能な構造(理論)はすでにあらかじめ決定しているとも考えられます。すなわち我々は、あらかじめわかる事しかわからないのです。」
「ダーウィンの功績は、生物はすべて進化しうる構造(形式)をもっていること明らかにし、その形式を記述したことにあります。すなわちダーウィンは、生物であることと、進化をすることは実はおんなじだと言ったわけです。」
「変異の内部形式を問わなくとも、生物の変化(小進化)は説明できるでしょう。しかし変異の内部形式を問わなければ、壮大な進化史の全部を説明できっこない、と私は考えます。」
「多元主義の原則はポジティブなものでなく、ネガティブなものです。他の文化や伝統を抑圧する一元論的なルールを認めない、というのが多元主義の唯一のルールです。人々の恣意性の権利を擁護するとは、制度、文化、伝統自体を擁護するのではなく、それらの無根拠なルールに対する人々の選択の自由を保障するということです。多元主義社会の規範(もちろんこれも無根拠なものです)は人々の恣意性の権利(すなわち自立的な選択と拒絶)を勘案することなく、不可避にこれを侵害する制度を排除しよう、ということだけです。」

2002年5月18日土曜日

28 ネンアンデルタール:2002.05.18

ジェン・ダーントン著「ネアンデルタール」(ISBN4-7897-1530-2 C0197)
を読んだ。
古人類学者が、その絶滅の説を考え、ネンアンデルタール人を発見して、彼らの絶滅の原因について考える。

その中の一節。
「新種はいつだって発見されているんだ。その肉が地元の市場で売られていたり、現地人が奇妙な模様のある毛皮を胸に飾っていたりすることさえある。前世紀には、地元にさまざまな逸話が伝えられているにもかかわらず、マウンテン・ゴリラの存在を信じる者なんかいなかった。誰も見たことがなかったからだ。ほんの3000人ばかりのアフリカ人を除いて」
「地球の表面から海を差し引き、砂漠と高山と極地を差し引いたら、あとに残るのはどのくらいだと思う?およそ20%だ。おれたちは地表の5分の1だけを占拠して、人間はどこにでもいる、ほかの者のための場所なんか残っていないと考えているにすぎない。競争相手の存在なんか想像さえしないんだ。だがな、この地球に棲んでいる人間が自分たちだけだなんて考えるのは、この宇宙に生物の存在する惑星は地球しかないと考えるの、同じくらい不合理なことじゃないのか」
「脅威がさほどでないものは珍説って扱いになる。学術誌では不利な扱いを受け、ほかの研究者にあざけられ、マスメディアはそれを面白おかしく取り上げる。だがこいつみたいに本当に革命的なものだと、向こうも全力を上げて阻止しにかかるんだ。昇進の道は絶たれ、町からは逐われ、波一つ表には出ない。誰だって間抜けに見られたくはないからな」
「予期しない逆境にもすぐに順応してしまうのが人類の特質だ。人類が生き延びてきた秘密は、意外とそんなところにあるのではないか」
遺伝的浮動とは、「基本的には遺伝に適用される統計だよ。小さな孤立した集合においては、ランダムな出来事の影響が拡大されて現れることがある。遺伝子に生じた突然変異が、あっというまに永久性を獲得してしまうのだ。より大きな集団で生じた場合に比べて影響力が大きく、劇的な変化が短時間のうちに成し遂げられることもある。」
「人間がジャングルの獣と違うのは道徳を持っている点、そして自分が確実に死ぬと知っている点だ。道徳と死、それが文明の二本の柱なのだ。それはほかのあらゆるものに優先するのだろうか-言語、学習、発明、科学的発見、医療、プトレマイオス、ガリレオ、ニュートン、パスツール、アインシュタイン。人類最初の発明である車輪のことを考える。」
「人間の耐久力というものを象徴しているように感じたのだ。絶対にあきらめないというこの態度、分の悪い賭けさえひっくり返してしまうことの忍耐力によって、人類はここまで生き延びてきたのだ。進化の中で選ばれた種となったのは、人類が進化というものに選択をまかせてしまわなかったからなのだろう。人類がつねに計画し、期待し、策をめぐらしてきた-歴史の中を抜け目なく渡ってきたのだ。」
同時期に共存していたネアンデルタールとホモ・サピエンスで、
「なぜわたしたちであって、彼らではなかったのか?彼らが死に絶えたのに、なぜわれわれは生き延びたのか。知性はどちらも同じようなものだけど、向こうは体力に優れ、たぶん数も多くて、少なくとも百万を超える個体がいたはず。(中略)彼らはどんな重要な特性を欠いていたのか(中略)欺瞞よ。他人を騙す能力」
「ある面で、欺瞞と知性の関係は切っても切れないものなのよ(中略)それがあるから世界を操作することができる。人間は脳によって知性を得、狡猾さによって知恵を得たのよ」
「幻想と驚きをもたらす能力と思えばいいのだ(中略)それがあったから、芸術と魔法と音楽と物語が生まれた。それは、人間の持つ心の目であり、人類は想像力によって自身を外部に投影しているんだ」

2002年5月17日金曜日

27 さよなら古い講義:2002.05.17

田中一著「さよなら古い講義」
(ISBN4-8329-3261-6 C1037)
を読んだ。

この本では、「質問書方式」というやり方で、
講義をされた結果をまとめられ、
それは、誰にでも適用可能で、効果もあるはずと示されている。

しかし、私は、考えさせられたの同時に、
不思議な本でもあった。
この本は、学部の研究会に田中氏が来られて、頂いた本である。
著者の教育に取り組む熱意には心打たれるものがある。
それと、常に前向きに物事に取り組まれている姿勢にも
感動するものがある。

では、自分がこの教育方式を取り入れるかどうか、
判断に迷うところである。
私は私なりの方法論で、教育に取りくんでいる。
また、もし、この方式を学校の全教員が取り入れたら、
もはや革新的でなくなる。
また、多様化を考えるのであれば
他の手法も、常に工夫しておくべきであろう。
たしかし、面白い試みだし、充分な時間をとれば、
それに対応することも可能であろう。
自分の場合は、
今年は不可能である。
来年は、今年の様子と、自分の教育観を考えて
再考する必要があろう。
確かに、面白い方法である。

2002年5月1日水曜日

26 弁証法をどう学ぶか:2002.05.01

井尻正二著「弁証法をどう学ぶか」
(ISBN4-272-43046-7 C0010)
を読んだ。

井尻氏がどのようにして弁証法を勉強しているかを
エッセイ風にまとめたものである。
彼の哲学書が何故読みやすいかというと、
自然科学者あるいは地質学者の目で、
哲学を考えているからであろう。

その中で否定について考えている。
否定の歴史は、
アリストテレスに始まる形式論理学的否定は、
「否定判断としての否定」、
スピノザのいう「規定は否定である」とは
「規定即否定としての否定」、、
ヘーゲルの弁証法的否定は、
「すべての規定は否定である」という言葉は
「否定の否定(止揚)としての否定」
となっているという。

大変参考にある。
しかし、私の目指す地質の哲学とは違う。

2002年4月24日水曜日

25 進化の大爆発:2002.04.24

大森昌衛著「進化の大爆発 動物のルーツを探る」
(ISBN4-406-02756-4 C0046)
を読んだ。
この本の存在は、1年半ほど前から知っており、
3月の北京行とのときに手に入れ、
半分ほど読んで、
そのご転職のどたばたで、
しばらく間が開いていたが、今日やっと読み終わった。
原生代後期からカンブリア紀にかけての
生物の進化をまとめた本である。
本書は、大森氏のライフワークである。

先カンブリア紀とカンブリア紀の境界は
私は最近興味をもった。
大森氏と、2度のわたる中国への調査で、
その境界に互いに興味があること、
そして、それぞれの視点が違うことも認めながら、
見解を一(いつ)にするところも多いことも判明した。
そして、最終的な結論として、
私との共著の論文を今年書くつもりである。
その論文に本書は参考なる。

24 淮南子の斉俗篇:2002.04.24

中国古典文学体系第6巻
「淮南子・説苑(抄)」
(平凡社)
これは、日本語訳である。
そのうち、淮南子(えなんじ)の斉俗(せいぞく)篇を読んだ。

「日本書紀」の国生みの神話が、
淮南子の天文篇に由来している。
そんな淮南子の解説書が
金谷治著「淮南子の思想」
(ISBN4-06-159014-6 C0110)
がある。
以下、いくつか気になった言葉である。

「斉(せい)は、壹(いつ)(ひとしい)である」

「いわゆる達とは、他の外物を知るの達にはあらず、
おのれれに知るの達なり」

「形を遺(わす)れ智恵を去り、
素(もと)を抱いて真に反(かえ)る」

「至極の是とは、これを非とするもののなきこと、
至極の非とは、これを是とするもののなきこと、
これぞ真の是非」

2002年4月15日月曜日

23 弁証法における「否定の否定の法則」について:2002.04.15

井尻正二著「弁証法における「否定の否定の法則」について」(ISBNなし、地団研プックレットシリーズ10)を読んだ。
小冊子であるが、久しぶりに本を読んだ。井尻正二を読んでいる。この書は、O先生から頂いたものである。地質学と哲学を橋渡すようなものを考えたとき、日本では、井尻正二を忘れていけない。かれは、ヘーゲル、エンゲルスなどの研究を
地質学者とおこなってきたのである。学生時代、井尻氏の書いた「科学論」を読んで感動したことがある。そのあたりを、再度読み直そうと考えている。これが手始めである。
この書は、ヘーゲルの弁証法の根本原理である「否定の否定の法則」を批判したものである。弁証法の勉強の入門としていいかもしれない。
弁証法とは、「世界を生成消滅の自己運動としてとらえる」考え方である。弁証法とは、三分法の思考形式を持つ。定立(あるいは正)と呼ばれる最初の説があると、それに対立、矛盾する反定立(あるいは反)が生まれる。それをさらに否定(あるいは止揚(アウフヘーベン:aufheben)とよばれる)され、次なる正(あるいは(総)合)になるという思考形式である。ヘーゲルの観念的弁証法からはじまり、マルクス、エンゲルスの唯物弁証法になったものである。
その正に至る過程が、「否定の否定の法則」で、弁証法の根幹となる部分である。それを批判した書である。面白かった。

2002年4月6日土曜日

22 もったいない:2002.04.06

山口昭著「もったいない 常識への謀反」(ISBN4-478-33041-7 C0034)を読む。
久しぶりに本を一冊読みきった。家にいるときの開き時間によんだものである。
北海道に来て、一番先に考えたこと、それは、終(つい)の地となること、そして、自分の気に入った家に住むこと。湯河原の持ち家を購入するとき、建築や別荘などについて書かれて本を読んだ。そのとき読んで、一番感動したのは、赤池学・金谷年展著「世界でいちばん住みたい家」(ISBN4-484-98102-5 C0036)であった。
そのなかで紹介された家に住みたいと思った。私の気に入った家は、「木の城たいせつ」という変わった名前の建築会社が立てたものである。「木の城たいせつ」は、北海道でしか建てられない。だから、神奈川にいる時は住めなかったのである。北海道でないと住めない家なのだ。山口氏は、その「木の城たいせつ」の創業者でありオーナーである。
本書は、山口氏の生い立ちと、「木の城たいせつに」の企業姿勢にいたる経緯を書かれている。本書は、家の近くにあった「木の城たいせつ」のモデルハウスを見に行った翌日、営業の人が来て、置いていったものである。そして、今日、栗山にある「木の城たいせつ」の本拠地のモデルルームを見に連れていってもらう。栗山は家から近いのである。

2002年3月19日火曜日

21 ボクの町:2002.03.19

乃南アサ著「ボクの町」(ISBN4-10-142522-1 C0193)を読んだ。
家内が読んだ本であるが、久々にユーモア小説というのを読んだ気がする。新任教養期間を終えた新米おまわりさんが、
職場実習をする話しである。
かつて、中学性や高校生の頃は、遠藤周作、石原慎太郎、獅子文六?などのユーモア小説をよく読んでいたことを思い出した。

2002年3月14日木曜日

20 干し草のなかの恐竜(上):2002.03.14

スティーヴン・ジェイ・グールド著「干し草のなかの恐竜(上)」(ISBN4-15-208298-4 C0045)を読んだ。グールドのエッセイはハードだが面白い。そして、欧米の知識人ならきっと面白いと思われる言い回し、引用、比喩などが各所にちりばめられている。それが、完全に理解できないのつらい。でも、欧米人でも、完全に理解できないのかもしれない。それほどの奥深さがあるから、面白いのかもしれない。
面白かったところ。千年紀のはじまりについて。グールドは2000年派。「人々が決着のつかない些末な問題をめぐって喧々囂々の議論を戦わせたいのではにか。それをしないと、その分のエネルギーを、人殺しに発展しかねいないほんものの喧嘩につぎ込みかねないのではないか。そうとでも考えないかぎり、答えの出ない論争に明け暮れてきた歴史を説明できそうにない」
テニソンの「イン・メモリアル」118節より「時間が成し遂げたこの仕事すべてを沈思せよ」
「われわれのまわりに二元性あるいは二分法がありふれていることには、おそらく理由がある。むろん、自然が対を好むということもあるかもしれないが、それ以上に、人間の頭が二分法を好む構造になっているからなのではないか。」
「新しいアイデアが、それまでとは別の観察方法を強いたのだ。「観察が何かの役に立つすれば何らかの見解を支持するか否定するからだ」」
斉一説と激変説の論争の重大な問題
「変化そのものの本質」について。「人間の文化、生物、物理的な世界は、いずれも無限に変わることが可能で、通常はそれとわからないほどの小さな連続的変化を遂げているのだろうか(斉一説的観点)。それとも、大半の種類や組織の特徴はあくまでも構造の安定性であって、変化が引き起こされるのは、たいていは既存のシステムでは対応しきれないような激変的な動乱をきっかけにした、安定した状態から別の安定した状態への急速な移行というまれな出来事に集約されるのだろうか」
「因果の本質」について。「大規模な変化も、日々観察できる現象を引き起こしている原因と同じ、突飛でなく予想どおりの結果を引き起こす変化の単なる単なる拡張なのだろうか。それとも、ときおりの激変が、予測できない気まぐれな要因を地球の歴史に持ち込むのだろうか」

2002年3月11日月曜日

19 藍色回廊殺人事件:2002.03.11

内田康夫著「藍色回廊殺人事件」(ISBN4-06-273375-7 C0193)を読んだ。
推理小説である。徳島の吉野川を題材にした作品。いつもの作品より、複雑で面白みにかけた。

2002年3月5日火曜日

18 記載岩石学:2002.03.05

学会の雑誌への書評
周藤賢治・小山内康人:岩石学概論・上 -岩石学のための情報収集マニュアル 共立出版, 2002年2月, 272ページ (CD-ROM付き), 3,700円。
岩石学の教科書と呼べるものはいくつかある。しかし、記載岩石学と呼ぶべきものは、そう多くはない。和書で、類書としてまっさきに思いつくのは、都城秋穂・久城育夫著「岩石学I、II、III」の全3巻および黒田吉益・諏訪兼位著「偏光顕微鏡と岩石鉱物」の2つである。どちらもいい書籍で、いまだに多くの学生および研究者も利用しているのではないだろうか。
本書は、タイトルどおり、岩石を記載するときに不可欠となる知識、かつ重要な事項が整理されている。そして、岩石学における最新情報ももちろん盛り込まれている。本書の構成は、岩石の分類、火成岩の組成・分類・組織、火成岩の微量元素組成と同位体組成、火成岩の記載的特徴、火成岩体、変成作用、変成岩の分類と命名、変成作用の限界と進行過程、変成相と変成相系列、変成岩の組織、広域変成岩の記載的特徴、局所変成岩の記載的特徴、堆積岩の形成と分類、の13章からなっている。
本書の特徴はいくつもあるが、岩石を中心としている点と、CD-ROMが付属している点であろう。他の記載岩石学の書では、偏光顕微鏡の扱いがあり、造岩鉱物についても鉱物の分類に基づいて網羅的に記載されている。本書でも、鉱物の記載はあるが、必要最小限にとどめられている。そして、岩石の説明の中に必要最小限の造岩鉱物の説明がおさめられている。それは、岩石の記述に重点を置かれているためと考えられる。
この種の書籍では、カラーによる例示が、非常に重要である。もし、その要求を満たすなら、書籍の価格が高くなり教科書として高価になるという経済的デメリットが生じる。洋書には、優れた岩石写真や偏光顕微鏡写真のカラー図鑑があるが、和書では少量が口絵として添付されるにすぎない。この点が、従来の記載岩石学の教科書の欠点であり、残念な点であった。本書でも、多数の写真図版が小さいサイズで挿入されているにすぎない。しかし本書では、その欠点を補うために、写真のすべてと図表の一部が、CD-ROMにおさめられている。非常によい措置であると考えられる。今後、教科書的書籍で、カラー図版が必要な場合は、本書を例とされると良いと考えられる。
さて、最後に、欠点というか特徴というか、判断に迷う点を一つ述べよう。それは、堆積岩の記載についてのアンバランスである。火成岩と変成岩の記述に比べて、堆積岩の記述はあまりに少なく、アンバランスである。本書の著者である周藤氏は火成岩、小山内氏は変成岩を専門とされている。従って、堆積岩に関する記述が少ないのはしょうがないことかもしれないが、できれば、充実して欲しかった。しかし、本書を、火成岩および変成岩の記載のための教科書とすれば、変成岩の理解のためには、堆積岩の知識が不可欠である。従って、必要最小限の堆積岩の説明がなされていると考えれば、この程度で充分なのかもしれない。
本書は良書であり、記載岩石学の教科書として、学生だけでなく、研究者にも薦めたい書である。そして、下巻の解析岩石学へも期待が大きい。早く上梓されんことを祈っている。

2002年3月2日土曜日

17 ユタが愛した探偵:2002.03.02

内田康夫著「ユタが愛した探偵」(ISBN4-19-850547-0 C0293)を読んだ。
沖縄のユタと琉球王朝、そして日本と琉球との関係にふれた推理小説。
面白かった。

16 量子宇宙干渉機:2002.03.02

ジェイムズ・P・ホーガン著「量子宇宙干渉機」(ISBN4-488-66319-2 C0197)を読んだ。
本格的SFである。本編に必要なら、物理学すら構築する。すごい才能である。
登場人物の中にサム・プニュンサクというタイの仏教哲学者があり、彼の周辺で含蓄のある会話が多数なされる。その中に以下のようなものがあった。
「意識は、人生が提供する混沌とした選択肢のなかで、より良い未来へと進む方法を学ぶのだと。簡単にいうと、社会というものは、一定の制約に従ったりさまざまな基準を守ったりすることで、長い目で見た場合にはかえって良いものとなって、”悪”とは対照的な”善”という特性をもつようになる。さまざまな宗派や哲学派が、本質的には同じメッセージをことなったやりかたで説明してきた―たいていは、なんらかのかたちで善悪を伝える”神々”という概念によって。1千年ものあいだ、哲学者たちは、道徳の規範を論理という土台から合理的に導き出そうとして、失敗を重ねてきた。」
「きみはまだ若いからすべてを知っているわけではないだろうが、話すぶんの二倍は耳をかたむけるべきだということはわかるはずだ。だからこそ、神さまはわれわれにふたつの耳とひとつの口をあたえたのだろう?」
「憎むことをやめたら、人は他者のなかにみずからを見るでしょう。そうなったとき、どうして他者を苦しめようとするする気になれますか? 人びとは、何千年ものあいだ、人間の非道な行為を抑制するために、恐怖や、暴力や、道理や、説得をもちいてきて―すべて失敗に終わりました。しかし、効果を発揮するには、強大な警察も大がかりな法令も必要ありません。同情の念さえあればいいのです。他者の苦しみや恥辱を感じるときに、どうして彼らを傷つけることができるでしょうか?」
「人びとが、なにかを手に入れるには他人からなにかを奪わなければならないと考えるかわりに、お互いに助け合うということ。だれかが得点したからといって、だれかが失点する必要はないのよね?」
「わたしたちが見ている世界は、いかなる人間の理解力もおよばないプロセスによって支配されており、人間の力の限界というものを思い知らされるばかりです。私たちが体験することは、わたしたち自身の判断や行動に応じて、なんとも複雑なわかりにくいかたちで決定されます。ということは、しるしを読みとる方法さえわかれば、より良い道すじを見つけられすはずなのです。かれはまさに、まともな宗教がいわんとしていることにほかなりません。そのような作用をあらわす手段としては、”神”という概念も有効なものと思われます」
「なにかを理解したいと思うなら、はじめから答えがどうだろうと気にしないという決意をもとなければならないということだ(中略)たとえば、ニュートン力学や近代天文学が受け入れられるためには、人びとが、惑星の運行に神や天使がかかわっていて、それを信じないものは地獄に落ちるのだという信念をそっくり捨てる必要があった」
含蓄のあることばである。

2002年2月23日土曜日

15 eメールの達人になる:2002.02.23

村上龍著「eメールの達人になる」(ISBN4-07-720119-8 C0236)を読んだ。
村上氏のeメールに対する考えを書いた書である。eメールという条件と、日本語と相手を大切にする考えは共感したが、著者は、相手への配慮をひつこく言っていたが、どうもそれが、押し付けがましく感じた。合い矛盾する感情を持った。感情とは、難しいものである。

14 立派な親父になる:2002.02.23

林道義著「立派な親父になる」(ISBN4-88747-022-3C0095)を読んだ。
この本では、もはや現在の親には期待できない、だから、子供に期待しようという趣旨だろうか、子供に向かって、誰もが納得できる親父像を提示している。この書は、私は永久保存である。
さて、この本でよかったところだらけだが、一番大事な部分は、
「なぜこどもに立派な大人が必要なのか。それは人間には、少しでも良くなろう、高まろうという向上心があるからだ。とくに子どもには向上心が強い。立派な人間にになりたという心がある。そのとき模範が必要になる。その最初の模範になるのが父親なのだ。」
であろう。
立派な父親とはどういう人を言うのかについて、
「家族を慈しむ父でなければならない」
「何でも教えたがる父親は、たいへんすばらしい父である」
「みなが一緒によりよい状態になる、つまり幸せになることを目指すのが父親の「理想」である」
「正しい心を持てば、正義の道を見つけやすくなるのである」
「民族の文化を子に伝え、民族に特有の美しい完成を伝えていかなければならない」
「父親は子どもに礼節を教えなければならない」
「規則正しい生活習慣を見につけるさせること」
「もう一つ最も基礎的で大切な「しつけ」がある。「うそを言ってはいけない」といいう「しつけ」である」
「道徳・礼節を語らない男を、父とは呼ばない」
「子どもに感動体験を与えよ」
「立派な父になるためには、自らが男らしくなると同時に、子どもを男らしく育てなければならない」

13 天は人の上に人をつくらず:2002.02.23

安野光雅著「天は人の上に人をつくらず」(ISBN4-88747-020-7 C0095)を読んだ。80ページ足らずの文庫で300円ほどの小冊子である。
しかも、漢字には全部ルビ付きで、子供向けの本である。私が出したいような本である。薄い本もいいが、しっかりした本を書きたい。愛読者ハガキを出した。どういう反応が、楽しみだ。
さて、この本でよかったところ。
「むかし、「進取の精神」という言葉があった。何事によらず、自分から進んで物事に当たるという意味だが、諭吉ほど「進取の精神」に満ちた人は少ない。」
「「その人が人間として尊敬できるかどうか」という物差しで計ることにしたらどうだろう。これは、きまった物差しがないから、はっきりしたことは言えないが、世間のどこでも通用する上下を言うなら、「人間として・・・・」と考えるほかない。」

2002年2月7日木曜日

12 心は孤独な数学者:2002.02.07

藤原正彦著「心は孤独な数学者」(ISBN4-10-124806-0 C0141)を読んだ。
文庫版ではこれが最新刊である。この本では、藤原氏が尊敬する数学者である、イギリス人のニュートン、アイルランド人のハミルトン、そしてインド人のラマヌジャンという天才たちの人間としての足跡をたどったものである。イギリス、スコットランド、インドと大英帝国圏のそれぞれの地で、それぞれの民族として風土の影響を受けた人間として天才数学者が描かれている。
本の中で気になった文章をいくつか載録する。
ニュートンの墓碑銘として詩人アレキサンダー・ポープの二行詩
「自然と自然の法則は闇に横たわっていた
神は言い給うた、『ニュートンあれ』、すべては光の中に現れた」
「イギリス人の保守性を考える時、いつも胸をよぎるのは、彼等の独創性である。力学(ニュートン)、電磁気学(マクスウェル)、進化論(ダーウィン)はみなイギリス産である。近代経済学(ケインズ)もビートルズもミニスカートもイギリス産である。ジェットエンジンもコンピュータもイギリス産である。」
恋と詩と数学に生きたハミルトンが4元数を思いついた興奮のあまり刻み付けた式橋の欄干の碑文
「ここにて、1843年10月16日、ウイリアム・ハミルトンは、天才の閃きにより、四元数の基本式を発見し、それをこの橋に刻んだ。i2=j2=k2=ijk=-1」
「哲学の系譜からいっても、イギリスは経験論の国である。教義や論理などより、経験を重視するのである。厳密性や論理性などというのは、柔軟性に欠けたドイツ人の考えることで、つまらぬ理屈を並べ立てるのは、口先だけのフランス人のすること、と軽蔑していたのである。」
「先進国の人々で、インドに魅了される者がいるのは、中世と現在の共存する、目の回るような多様性の中に、文明を剥ぎ取った人間、仮面をとった自分自身を目の当たりにするからであろう。どこで何を見ても、否応なしに何かを突きつけられる。それは驚きであり、時には憤怒や感動であり、常に知的刺激である。絶え間ないこの刺激も、疲労を深める大きな一因であろう。インド疲れは回復するのに、帰国後三週間はたっぷりかかるのである。」
「人間も含めた広義の宇宙が、神により美しく調和ある姿に構成されているためかもしれない。あるいは、人間が美しいと感ずるものは、人間の知性に最も適合するものであり、従って道具としても利用しやすいのかもしれない。」
ラマヌジャンの独創性について著者がランガチャリ教授に尋ねたところ、「チャンティング(詠唱)が独創の一因と思う」
「独創との関係について述べてみましょう。まず、詠唱により大量の知識を確実に蓄えることがでいます」
「次に一つ一つの知識が孤立した点ではなく、広がりをもって記憶されるということです」
「折にふれ口ずさむことは、得られた知識や概念をもてあそぶということです」
という答えが帰ってきた。 含蓄のある言葉である。

2002年1月30日水曜日

10 父の威厳 数学者の意地:2002.1.30

藤原正彦「父の威厳 数学者の意地」(ISBN4-10-124805-2)を読んだ。これもやはり、面白かった。その本の一節に「ティーを片手に、ゆったりとした気分で、人生、文学、芸術を語り、自然と親しみ、余裕の中で着想への思いをめぐらすのが、彼ら(イギリス人)の理想である。一方のアメリカ人数学者は、コーヒーでやる気を覚醒し、自分を叱咤しながら論文生産競争に励む。」とあった。私は、イギリス的を望みながら、アメリカ的生き方をしている。
また、「尊敬される国家とは、普遍的価値を創出した国家のことであろう。イギリスは近代的民主主義を作った。フランスは人権思想を、ドイツは哲学や古典音楽を作った。この三国は自然科学での貢献も大きい。経済的にも軍事的にも大したことのない英独仏が、いまだに国際舞台でリーダーシップを発揮しているのは、まさに彼等が創出した普遍的価値に、世界が敬意を払っているからである。尊敬されることは、防衛力ともなる。」とある。
私は、ついつい個人に、この考えを敷衍してしまう。私は尊敬される人間だろうか。単に努力や成果を売り物にする、薄っぺらな人間なのだろうか。
私は、自分自身を振り返ると、多分評価するが、尊敬しないであろう。なぜなら、アメリカ人的であるから。イギリスのような尊敬を得られる人間を私は尊敬する。

2002年1月25日金曜日

9 遥かなるケンブリッジ:2002.1.25

藤原正彦「遥かなるケンブリッジ 一数学者のイギリス」(ISBN4-10-327404-2 C0030)を読んだ。面白くて一気に読んだ。
数学者の著者が、家族を連れて、1年間ケンブリッジ大学に滞在したときの記録である。単に滞在記、エッセイというより、イギリスの文化、国民、歴史を評論している。
イギリス人は、fairを尊ぶ。辞書の、公平な、公正な、適正な、正当ななどとは少し違っているという。「フェアーであることを、イギリス人は絶対的なことと考え、アメリカ人は重要なことと考え、ヨーロッパ人は重要なことの一つと考え、日本人は好ましいことと考える」
ジェントルマンの慎み深さを表す会話として、相手の父のことを優秀な科学者ですかと、著者が尋ねると「そうかも知れない。一応はノーベル賞をもらってるから」と、慎み深く答えたという。
著者は言う、「イギリス人は何もかも見てしまった人々である。かつて来た道を、また歩こうとは思わない」と。それは、大英帝国、近代民主主義の栄華を謳歌し、そして現在に至っている。その後、同じような経路をイギリス人は取らないというのだ。含蓄のある言葉である。

2002年1月24日木曜日

8 数学者の休息時間:2002.1.24

藤原正彦「数学者の休息時間」(ISBN4-10-124803-6 C0195)を読んだ。
面白かった。
特に、「父の旅 私の旅」が秀逸。父の絶筆となった新田次郎の小説「弧愁-サウダーデ」の取材地を、父の死後2年後にたどる。新田次郎の9冊におよぶ取材ノートを頼りに、父の姿をたどる。そして、そこに「弧愁-サウダーデ」を見た。
いい本であった。

2002年1月23日水曜日

7 パソコンで楽しむ山と地図:2002.1.23

山と地図のファーラム編著「パソコンで楽しむ山と地図」(ISBN4-408-00745-5 C2026)
地図データを用いて、3次元的に表現するための手法や各種ソフトを用いた操作法に関する書籍である。自分でもやる機会があるかもしれないので購入したが、役立ちそうにもないので流し読みをした。1997年に発行の本なので、少し古い。コンピュータの世界では、4年という時間差は致命的である。

2002年1月22日火曜日

6 急いでも損をしない家の売り方:2002.1.22

櫻井幸雄著「急いでも損をしない家の売り方」(ISBN4-7966-2511-4 C0277)
故あって、家を売ろうと考えている。そのための参考になろうかと、考えて読んだが、少しだけ参考になった。

5 数学者の言葉では:2002.1.22

藤原正彦著「数学者の言葉では」(ISBN4-10-124802-8 C0195)「若き数学者のアメリカ」の著者である。かなり前に読んだエッセイで、メールマガジンの読者が彼のファンであったことから、藤原氏の著者を何10年ぶりかで、思い出した。そして去年の暮れ、神田の古本屋で「遥かなるケンブリッジ」の単行本を見つけ、ふと、買って、他のエッセイもないか探したら何冊も出ていたので、購入して、今順番に読み出した。
面白い。父の新田二郎の言葉として、このエッセイ集に書かれていた言葉が印象的だった。「作家になるための条件は、名文を書く力ではない。読者を引っぱて行く力である」さらに、「若き数学者のアメリカ」でガールフレンドとの交流について書かれているところが非常に印象に残ってたのだが、その部分について新田二郎は、「危ない。ああいう所は本当に危ない。あれでぎりぎりだ。もう一行書いたら全体がダメになるところだった。今度は気を付けないといけない」といったそうだ。ぎりぎりのところでの文章だから、印象も強かったのかもしれない。

2002年1月16日水曜日

4 ランダムな世界を究める:2002.1.16

米沢富美子・立花隆著「ランダムな世界を究める」(ISBN44-582-76409-6 C0350)を少し前に読んだ。物性物理学者の米沢氏への立花隆のインタビューである。10年前に発行された書籍が、平凡社ライブラリーとして復刊されたものである。内容は最先端の部分では古くなっているかもしれないが、門外漢には新鮮に感じた。米沢氏には、10数年前にあっている。私はまだ、ポスドクの身で、あるコンファレンスのオーガナイザーに当時の指導教官がなっていたので私も手伝いとして借り出された。このコンファレンスの招待講演で米沢氏が話をした。それを舞台裏から聞いていた。講演内容は全く理解できなかったが、彼女のシャープさとあっけらかんとしたおおらかさが印象に残った。

2002年1月15日火曜日

3 二人で紡いだ物語:2002.1.15

米沢富美子著「二人で紡いだ物語」(ISBN4-931178-32-4 C0095)を読んだ。
物性物理学者の著者の研究者、妻、母として、それも一流の人としての活動が、さりげない謙虚な気持ちで書かれている。そして最愛の夫が60歳にして先立たれたときの悲しみ、そしてそれを乗り越えるために、夫婦での思いでの地を巡っていく。すばらしい夫婦愛を見た気がする。
私の家族でも順番からいけば、私が一番先に死ぬはずである。それを考えると残されたものがこのように自分を慕ってくれているということがわかれば、憂いなく先立てる気がする。さて我が家ではどうなるであろうか。

2 暗号解読:2002.1.15

サイモン・シン著「暗号解読」(ISBN4-1-53902-2 C0098)を、「フェルマーの最終定理」についで読んだ。予想通り、面白かった。暗号作者と暗号解読者の能力比べ。カエサル暗号、ヴィジュネル暗号、古代文字解読、ドイツ軍採用の暗号機エニグマ、そして現在使用されているRSA暗号、PGP暗号、未来の暗号量子暗号まで説明されている。近代では数学者が数学理論に基づき、その役を担っている。さらに、将来は量子物理学者が暗号において重要な役割を演じる可能性がでてきた。
このような非常に高度の内容を「フェルマーの最終定理」のときと同様わかりやすく説明している。最後の賞金付の「史上最強の暗号」が掲載されている。残念ながらこの暗号は解読されていた。

2002年1月14日月曜日

1 怒りのブレークスルー:2002.1.14

風邪で寝込んでいるとき、眠れないので本を読んだ。中村修二著「怒りのブレークスルー」(ISBN4-8342-5052-0 C0095)である。前作の「考える力、やり抜く力 私の方法」(ISBN4-8379-1872-7 C0030)に続いて読んだ。内容的に重複する部分があるけれども、やはり共感を覚えた。同世代という共通項だけでなく、体制へ怒り。イエスマンへの怒り。上層部の無能さへの怒り。それらに、不満を抱かない人たちへの不満。家族や、田舎の自然を愛する気持ち。そして、自分の気持ちを大切にする気持ち。などなど、感じるところがあった。