2002年5月18日土曜日

28 ネンアンデルタール:2002.05.18

ジェン・ダーントン著「ネアンデルタール」(ISBN4-7897-1530-2 C0197)
を読んだ。
古人類学者が、その絶滅の説を考え、ネンアンデルタール人を発見して、彼らの絶滅の原因について考える。

その中の一節。
「新種はいつだって発見されているんだ。その肉が地元の市場で売られていたり、現地人が奇妙な模様のある毛皮を胸に飾っていたりすることさえある。前世紀には、地元にさまざまな逸話が伝えられているにもかかわらず、マウンテン・ゴリラの存在を信じる者なんかいなかった。誰も見たことがなかったからだ。ほんの3000人ばかりのアフリカ人を除いて」
「地球の表面から海を差し引き、砂漠と高山と極地を差し引いたら、あとに残るのはどのくらいだと思う?およそ20%だ。おれたちは地表の5分の1だけを占拠して、人間はどこにでもいる、ほかの者のための場所なんか残っていないと考えているにすぎない。競争相手の存在なんか想像さえしないんだ。だがな、この地球に棲んでいる人間が自分たちだけだなんて考えるのは、この宇宙に生物の存在する惑星は地球しかないと考えるの、同じくらい不合理なことじゃないのか」
「脅威がさほどでないものは珍説って扱いになる。学術誌では不利な扱いを受け、ほかの研究者にあざけられ、マスメディアはそれを面白おかしく取り上げる。だがこいつみたいに本当に革命的なものだと、向こうも全力を上げて阻止しにかかるんだ。昇進の道は絶たれ、町からは逐われ、波一つ表には出ない。誰だって間抜けに見られたくはないからな」
「予期しない逆境にもすぐに順応してしまうのが人類の特質だ。人類が生き延びてきた秘密は、意外とそんなところにあるのではないか」
遺伝的浮動とは、「基本的には遺伝に適用される統計だよ。小さな孤立した集合においては、ランダムな出来事の影響が拡大されて現れることがある。遺伝子に生じた突然変異が、あっというまに永久性を獲得してしまうのだ。より大きな集団で生じた場合に比べて影響力が大きく、劇的な変化が短時間のうちに成し遂げられることもある。」
「人間がジャングルの獣と違うのは道徳を持っている点、そして自分が確実に死ぬと知っている点だ。道徳と死、それが文明の二本の柱なのだ。それはほかのあらゆるものに優先するのだろうか-言語、学習、発明、科学的発見、医療、プトレマイオス、ガリレオ、ニュートン、パスツール、アインシュタイン。人類最初の発明である車輪のことを考える。」
「人間の耐久力というものを象徴しているように感じたのだ。絶対にあきらめないというこの態度、分の悪い賭けさえひっくり返してしまうことの忍耐力によって、人類はここまで生き延びてきたのだ。進化の中で選ばれた種となったのは、人類が進化というものに選択をまかせてしまわなかったからなのだろう。人類がつねに計画し、期待し、策をめぐらしてきた-歴史の中を抜け目なく渡ってきたのだ。」
同時期に共存していたネアンデルタールとホモ・サピエンスで、
「なぜわたしたちであって、彼らではなかったのか?彼らが死に絶えたのに、なぜわれわれは生き延びたのか。知性はどちらも同じようなものだけど、向こうは体力に優れ、たぶん数も多くて、少なくとも百万を超える個体がいたはず。(中略)彼らはどんな重要な特性を欠いていたのか(中略)欺瞞よ。他人を騙す能力」
「ある面で、欺瞞と知性の関係は切っても切れないものなのよ(中略)それがあるから世界を操作することができる。人間は脳によって知性を得、狡猾さによって知恵を得たのよ」
「幻想と驚きをもたらす能力と思えばいいのだ(中略)それがあったから、芸術と魔法と音楽と物語が生まれた。それは、人間の持つ心の目であり、人類は想像力によって自身を外部に投影しているんだ」

2002年5月17日金曜日

27 さよなら古い講義:2002.05.17

田中一著「さよなら古い講義」
(ISBN4-8329-3261-6 C1037)
を読んだ。

この本では、「質問書方式」というやり方で、
講義をされた結果をまとめられ、
それは、誰にでも適用可能で、効果もあるはずと示されている。

しかし、私は、考えさせられたの同時に、
不思議な本でもあった。
この本は、学部の研究会に田中氏が来られて、頂いた本である。
著者の教育に取り組む熱意には心打たれるものがある。
それと、常に前向きに物事に取り組まれている姿勢にも
感動するものがある。

では、自分がこの教育方式を取り入れるかどうか、
判断に迷うところである。
私は私なりの方法論で、教育に取りくんでいる。
また、もし、この方式を学校の全教員が取り入れたら、
もはや革新的でなくなる。
また、多様化を考えるのであれば
他の手法も、常に工夫しておくべきであろう。
たしかし、面白い試みだし、充分な時間をとれば、
それに対応することも可能であろう。
自分の場合は、
今年は不可能である。
来年は、今年の様子と、自分の教育観を考えて
再考する必要があろう。
確かに、面白い方法である。

2002年5月1日水曜日

26 弁証法をどう学ぶか:2002.05.01

井尻正二著「弁証法をどう学ぶか」
(ISBN4-272-43046-7 C0010)
を読んだ。

井尻氏がどのようにして弁証法を勉強しているかを
エッセイ風にまとめたものである。
彼の哲学書が何故読みやすいかというと、
自然科学者あるいは地質学者の目で、
哲学を考えているからであろう。

その中で否定について考えている。
否定の歴史は、
アリストテレスに始まる形式論理学的否定は、
「否定判断としての否定」、
スピノザのいう「規定は否定である」とは
「規定即否定としての否定」、、
ヘーゲルの弁証法的否定は、
「すべての規定は否定である」という言葉は
「否定の否定(止揚)としての否定」
となっているという。

大変参考にある。
しかし、私の目指す地質の哲学とは違う。