2003年1月29日水曜日

7(85) 科学の大発見はなぜ生まれたか: 2003.01.29

ヨセフ・アガシ著「科学の大発見はなぜ生まれたか」
(ISBN4-06-257395-4 C0240)
を読んだ。

1週間ほど前に読んだのだが、
記入している暇がなかった。
8歳の子供も向けに書かれた、
科学哲学の本で、
なかなか面白本だが、
翻訳と内容に問題があった。

翻訳は、学生が講義でやったものを使っている。
そのせいか、子供向けなのむつかしい表現は、
いかにも直訳的な部分があって、
読みづらかった。
内容については、もっとわかりやすく書くべきである。
いい太古とがなんとなくわかるのだが、
これで、8歳の子供がわかったとは思えない。
したがって、この本は脚色しすぎである。
そうなら、大人向けのわかりやすい本を書くべできあろう。
これが、いい内容なの残念な点だ。

いかなる科学的成功も、
それが教育を受けた一般の人々に
届かない限り、 全面的なものとはなりません。
残念なことに、 ほとんどの専門家は、
ポップ・サイエンスのほうが、
それを模倣する完全な構造を持つ
科学以上に大きな利点を持っていることに気づきません。

科学の活動は、
問題およびその解決の試みからなる
果てしない対話であり、
相した解決の試みは、不明瞭だとか、
満足のいくものでないだとか、
あるいは偽であるとして、
批判されていくのである。

ただ科学者であるというだけで、
科学者をしんじてしまうのはとても非科学的なことだ。

ルネサンス科学やコペルニクス革命の中で
もっとも重要な発見はおろらく、
ギリシャ人がすべて同じ意見をもっていたわけではない
ということだろう。

「われわれが正しいのかまちがているのはか関係ない。
もし、われわれに話をきいてほしいならば、
あなたの正しさをわれわれに
証明してみせなければならない」

ガリレオをケプラーは一つののことで一致していた。
まちがいはどんなに小さくても、重大問題だと。

この実験の重要な点は、
実際にそれを実行することではなく、
その実験が明晰に考える手助けをしてくれることにある。

ベーコンは、次のようなやり方のほうが
ずっと安全だと主張した。
それは、考えることをまったくせずに、・・・・
より多くの事実を探すことから始めるやり方である。
十分な事実を得れれば、われわれは正しくなれるだろう。

ベーコンは・・・・
まずなすべきことは、
あらゆる迷信を忘れ去ることである。
次に、人々はできるかぎり多くの事実、
観察と理解が十分にできる単純で明晰な事実
を集めるべきである。

ガリレオとベーコン・・・・
迷信は時には正しいこともありうるが、
ふつうはまちがっており、
他方、科学はつねに正しいと、
二人は信じていた。
これが、二人のまちがっていた点だ。
彼らは、科学者はまちがいをおかさないと考えていたが、
それが大きなまちがいであった。

学校で教わったことsにしたがう人々は、
伝統主義者(traditionalist)とよばれる。・・・・
まったく新たに出発し、自分自身で考えようとする人々は、
根本主義者(radicalist)とよばれる。

ベーコンは科学者たちに、
だれでも理解できるような事実、
より多くの事実、単純な事実を注意深く提供するように、
警告した。
そうすれば、それらの事実から真なる理論が
現れたときには、みんながそれを信じるだろう。
そこようにすれば、科学者たちのあいだの口論や
意見の不一致は避けることができ、
科学はまちがいから免れるようになるだろう。

人々はデカルトの主知主義、
すなわち、われわれが何を信じればよいのかを
自分の精神に語らせるべきだというかれの考えを放棄し、
その代わりとして、ニュートンやベーコンにしたがった。
科学者は観察に観察を重ねるべきだ、
とかれらは主張した。

ニュートンの理論では、重力は遠くはなれたところに
作用する(遠隔作用)。
アインシュタインは、これはまったっく正しくなく、
重力は物体から外に向かって光速で進み
直接作用するのだ(遠隔作用)、と主張した。

ポアンカレは、仮説の中には危険なものがあると言った。
「とりわけ危険なものは、
暗黙で無意識のものである。
われわれは知らず知らずのうちに
それをもちいているので、
それから免れることはできない」と。

ファラデーは、エールステッドの数少ない追従者の一人で、
大きな自己不信に陥った。
「全世界を相手に戦っている私はだれなのか」
とファラデーは自問した。

ファラデーは、科学は信念の問題ではなく、
批判的吟味・検討の問題だと感じていた。

ファラデーの時代以降、科学の進歩を望むならば、
子供たちにどのようにしたら科学的になれるのかとか、
開かれた精神をもつことができるようになれるのかを
教えなければならない、
と多く人が気づくようになったからである。

6(84) カシミール3D GPS応用編: 2003.01.29

杉本智彦著「カシミール3D GPS応用編」
(ISBN4-408-00777-3 C2026)
を斜め読みした。

GPSを中心に書かれた本で、
将来GPSを使うようになったら必要だろうが、
今はいらない。
この本をかったのは、
西日本の5万地形図が収録されているからだ。
これで、東北地方を除く、
5万地形が使えるようになった。
今まではインターネット経由だったので、
まどろっこしかったが、
これで少しは砂データベースの
使用環境が改善されるであろう。

2003年1月18日土曜日

5(83) ダ・ヴィンチの二枚貝上: 2003.01.18

S. J. グールド著「ダ・ヴィンチの二枚貝上」
(ISBN4-15-208396-4 C0045)
を、やっと読み終えた。

やはり、グールドはすごい。

私は、根っからのヒューマニスト(人文主義者)であり、
何をさておいても、芸術と自然の微妙にして
知的な結びつきを愛している。
この結びつきは、どちらか一方が勝ってもいけない。
すばらしく多様な世界に生きているわれわれは、
ほとんど100パーセントに近い大自然から
ほとんど100パーセントに近い人工物までもが
醸し出す相互作用の全容を必要としている。

歴史上の大思想家たちが書き残した原典にあたると、
無限とも思えるほど新しいアイデアや発見が
たくさん得られるというものである。

ここに収めたすべてのエッセイは、
モンテーニュ以来の伝統として
エッセイというジャンルをもっともよく定義する
貴重なパラドックスを土台としてる。
良質なエッセイの根幹をなす
身近で正確な細事を持ってして、
それ自体としてのおもしろさを醸し出せると同時に、
もっと視野の広い一般性へと脱線するための
踏み台として機能せしむるというしだいである。

一篇のエッセイを成り立たせるほどの一般性をそなえた
統一的な枠組みに細事を昇格させるにあたっては、
自分が基本的に四つの戦略を採用してることに気づいた。
一、場合によっては、原典を調べまくることで、
新発見が得られる。
・・・・・・
二、たいていの場合、私が報告する観察は
決して未発表のものというわけではないのだが、
あまりおなじみでない話
(よく知られている話の場合もある)を、
これまで関係があるとは見られていなかった
別の話題と対置させることで目新しい文脈のなかに
位置づけることを心がけている。
・・・・・・・・


三、異質な細事を合体させることで、
私の第二のカテゴリーが機能するようなら、
第三の戦略は細心の発掘作業によって遂行される。
合体による解説ではなく、
掘り下げによる解説を目指すのだ。
・・・・・・・・
四、エッセイへの「昇格」は、
細事を報告するに値する一般的テーマへと
統合できるかどうかしだいである。
しかし、場合によって、細事それ自体がその独自の
価値によって単独で取り上げられるほど
魅力的に仕立てられる。

二つを対置させるというやり方が、
人間の精神活動の一般的なあり方
なのかもしれない。

「観察が何かの役に立つとしたらm
それはある見解を裏付けるか否定するかだということが、
どうしてわかってもらえないのでしょうか」。
これはこれまで何度もエッセイで引用している
ダーウィンの言葉である。

われら無知蒙昧の哀れな種族は、
自我を意識して哲学と芸術にふけるという、
進化史上他に類を見ない発明をもてあそぶことになった
最初の生物であるが、
その歩みはじつにのろい、
考え方や描写法としては
もっとも「明白」で「自然」な様式でさえ、
歴史の束縛を受けねばならず、
それを打ち破るのは並大抵のことでhないのだ。
そういうわけで、社会的な文脈からはずれた
解決策が浮上することはなく、
出てくる解決策は、
人間が向上する可能性を規定する、
心と環境の複雑な相互作用を反映したものとなる。

すべての人間は単一のもろい種に属している。
それは一つの生物的単位なのに、
誰の心にもある邪悪極まりない情動により、
細かすぎるくらいに区分されている。

ダーウィンは、デーナに・・・・・
1863年2月20日に返事を書いた。
・・・・・「地質学の記録が
これほどに不完全なものでなければ、
私もそう考えるところです。」

ハクスリーの行動をみたマーシュの言葉
「彼は、まさに偉大な人物の寛大さを発揮し、
はじめて目にした真実を前にして時節を捨て、
私の結論を採用した。」

科学における事実と理論の関係と、
理由は間違っているけれど
答えは正しいという現象である。
理論と事実は同じくらい強力で、
完全に相互依存の関係にある。

理論とは、外部の複雑な暗示に助長されることで
生じる心的構造物である
(理想的な場合は、経験的な実態からの
要請によって生じることもある)。
しかしその暗示は、夢だったり気まぐれだったり
勘違いだったりすることもしばしばである。

ダーウィンの言葉。
「誤った事実は科学の進展にとってきわめて有害である。
往々にして、長く生きながらえるからだ。
しかし誤った見解は、
裏づけとなる証拠があるにしても、
ほとんど害をなさない。
それは、その虚偽を暴くことに、
誰もが有益な喜びを感じるからである」

この構造主義は、
自然の実態を記録している部分も多いが、
大半は脳の基本的な作用様式を反映した
二項対立に基づいて、
時間を変えて統合されたテーマを探し求める。

知られている最初の旧石器時代のアーティストと
自分たちはいささかもちがわない同胞であることに
大いなる満足を覚えようではないか。

私にとって流用の原理はきわめてたいせつなものであり、
些末な事実から大きな一般性を引き出すのが
本エッセイシリーズのトレードマークではある

「ミッシング・リンク」という色あせた決まり文句は、
直線的な進化を前提とした概念である。
・・・・・
それに対して進化の潅木とという見方には、
化石記録が貧弱なせいで空隙とはやふやさだらけ
という点あるにしても、
潅木にただの一つの決定的な「ミッシング・リンク」
というものはありえない。

「斉一主義」というものは複数の意味を含む
複雑な語であり、
そのなかには正当な意味もあるが、
偽りかもしれない意味とものの考え方に対する
制約も含んでいる。

2003年1月13日月曜日

4(82) 「無限」に魅入られた天才数学者たち: 2003.01.13

アミール・D・アクセル著
「「無限」に魅入られた天才数学者たち」
(ISBN4-15-208402-2 C0041)
を読んだ。

アクセルは統計学の研究者である。
無限の面白さを感じ、
無限にとりつかれた数学者であるカントール
を中心に語られている。
本書を通じて、ゲーデルの不完全性定理の意義が
はじめてわかった。
すごいのは、大学の教員でありなが、
このような本を書いているということである。
数学への造詣は深いので、
数学の、それも連続体仮説の研究者か、
かつてそれを専門に研究した
サイエンスライターが、書いたものだ思ったが、
統計学の専門家だった。
アメリカの知識人の実力のすごさを知らされた。

「一と多の問題」は、
「複数の対象がひとつのものである
とはどういうことか?
個々の対象すべてを含む
ひとつの集合を考えることはできるのか?」

極限操作によって得られる可能無限だ
ということを発見したのガリレオである。

代数学は、整数や有理数など、
数えたり、表にしたりできる
”離散的”なものを対象にする。
それに対して解析学は、
関数や、数と数との距離、無理数などの
”連続的”なものを対象とする。

集合論というものは、実はその性質上、
不可避的にパラドックスを抱えた
理論なのである。

デカルトは幾何学のなかに
代数学を持ち込むことに成功し、
幾何学的な図形を数によって
表せることに気づいたのだ。

無限に関する限り、
次元というものには意味がない。
連続空間なら何であれ、
連続体と同じだけの点をもつ。
不加算無限の点をもつのである。

カントールが「我見るも、我信ぜず」と書いたのは、
このときのことである。

数学と哲学は自由であるべきであり、
アイディアの導くところ、
どこにでも自由に向かわなくてなならない
というのがカントールの信念だった。

カントールは、言葉では表現不可能な絶対者
という無限を唯一の例外として、
それ以外の無限を”超越数”、
すなわち「有限を超えた数」と呼ぶことにした。

集合の基数とは、
その集合に含まれる要素を計るものである。
有限集合の場合であれば、
基数はその集合に含まれる要素の
個数に他ならない。

カントールは、自分の見出した無限
-超限基数-に、
ヘブライ文字を使ってアレフと
名づけることにしたのである。

カントールは高い階層の無限に対応する
アレフの系列が存在する
ということ仮定を立てた。

クレタ人エピメニデスの作とされるパラドックスがある。
「私は嘘をついている」。

ワニのジレンマ

ラッセルのパラドックス
「セヴィリアの理髪師」
「グレリングのパラドックス」

ゲーデルはその哲学的資質を発揮して、
本質的な問いかけをするようになっていた。
証明とは何か?

証明と真実とは同じことか?
真である事柄は、常に証明可能なのか?
有限な系は、その系を超えたものに対して
証明を与えうるか?

彼が導いた結論は、
「任意の系が与えられたとき、
その系の内部では証明できない命題が
常に存在する」
というものだ。
つまり、ある命題がたとえ真であったとしても、
それを証明できるとは限らないということだ。
これが、有名なゲーデルの不完全性定理の
エッセンスである。

最大のマトリューシュカというべき全体集合は
存在しないことをかんがえるなら、
そして、決して到達できない絶対者に
思いを致すなら、
ゲーデルの不完全性定理も理解できる
気がするので刃にだろうか。
それは、今いる系の外側にあるもの、
与えられた系より大きなものが常に存在する
という主張なのだから。

与えれた系の内部にいたでは
捉えられない概念や性質が存在し、
それらを理解するためには、
より高いレベルに移らなければならない。
一方、カントールが示したように、
最高のレベルというものは存在しないのだから、
いかなる系の内部にも、
把握できないアイデアや性質が
必ず存在することになる。

数は実在するのだろうか?
連続体は実在するのか?
カントールはその答えが
二つともイエスであると信じていた。

ハレの住宅地区に、
ゲオルク・カントールのブロンズ銘板があり、
一文が刻まれている。
数学の本質は、その自由性にある

2003年1月11日土曜日

3(81) 脳の方程式 ぷらす・あるふぁ: 2003.01.11

中田力著「脳の方程式 ぷらす・あるふぁ」
(ISBN4-314-00923-3 C0040)
を読んだ。
感動した前著「脳の方程式 いち・たす・いち」
の続編である。
前著に比べて、専門的過ぎる部分が多く、
理解しづらいところがいくつかあった。
しかし、面白かった。

「意思を持つということは、
脳の規格が画一化されていないことを意味する。」

「自然界には「全能の神」は存在せず、
目的を持ったデザインは作れない。
(中略)
母なる自然はその偉業を、
二つの基本的技術を駆使することによって達成している。
(1)恒常状態、と
(2)形態
である。
つまり、母なる自然は、
特定環境を驚くべき正確さで保つことと、
機能のための特異的な形態を形成すること、
すべてを成し遂げているのである。」

「DNAには「何を作るか」は書かれておらず、
「どのようにして作るのかの法則」が
書かれているのである。」

「簡単に言ってしまえは、
脳とはどのようにでも使えるのである。」

「その人は、その機能を他の人よりも早く覚え、
かつ、早くこなす。
人はそれを才能と呼ぶ。
(中略)
しばらく同じようなことを繰り返しているうちに、
脳の情報処理の仕方に個体差が生まれる。
人はこれを個性と呼ぶ。」

「ヒトは二足歩行を始めたことで岩後を獲得し、
鳥類は飛行を始めたことで、音楽を獲得した。」

「情報である。
ヒトの運動能力の成熟には
情報の存在が必須なのである。」

2(80) 現代倫理学入門: 2003.01.11

1月8日に神について書いたし、
環境問題について何度か書いた。
このようなことをを考える学問として、
倫理学がある。
そして、現代の倫理に役に立つ教科書として、
ミルの「自由論」がある。
見るの倫理は、
「判断力のある大人なら、
自分の生命、身体、財産などあらゆる、
<自分もの>にかんして、
他人に危害を及ぼさない限り、
たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、
自己決定の権限をもつ」
というものである。
問題が発生したときのために、
可決策を用意ておくことを、
倫理学では、決疑論(casuistry)という。
神に関しては個人的決疑論であり、
環境については社会的決疑論といえる。

社会的決疑論としては、
・人を助ける嘘は許されるか
・10人ために1人を犠牲にできるか
・1人分の薬を10人の誰に患者に渡すか
・正直者が損をしないようにするには
・他人へ迷惑をかけなければ何をしてもよいか
・貧しい人を助けるのは豊かな人の義務か
・現在の人間は未来の人間への義務があるのか
・正義は時代によって変わるのか
・科学に限界があるのか
がある。
また、個人的決疑論としては、
・エゴイズムはすべて道徳に反するか
・幸福の計算法
・判断能力の判断
また、このような決疑論に答えを出す考え方にも
決疑論を用意しておく必要がある。
メタ決疑論というべきものである。
・「~である」から「~べきである」を導けるか
・正義の原理はどうして決めるか
・思いやりが道徳の原理か
などがある。
このような考え方の指針を与えれくれる本として、
加藤尚武著「現代倫理学入門」
(ISBN4-06-159267 C0112)
である。

2003年1月1日水曜日

1 (79) ブッダ: 2003.01.01 手塚治虫著「ブッダ」

(ISBN4-267-01301-2 C-179): 2002.12.15
(ISBN4-267-01302-0 C-179): 2002.12.15
(ISBN4-267-01303-9 C-179): 2002.12.16
(ISBN4-267-01304-7 C-179): 2002.12.17
(ISBN4-267-01305-5 C-179): 2002.12.17
(ISBN4-267-01306-3 C-179): 2002.12.19
(ISBN4-267-01307-7 C-179): 2002.12.21
(ISBN4-267-01308-X C-179): 2002.12.22
(ISBN4-267-01309-8 C-179): 2002.12.29
(ISBN4-267-01310-1 C-179): 2002.12.30
(ISBN4-267-01311-X C-179): 2002.12.31
(ISBN4-267-01312-8 C-179): 2003.01.01
を読んだ。

半月かけて読んだことになる。
一冊読むのに1時間弱ほどかかる。
だから全12巻読むのに、
10時間弱必要となる。
漫画であるから、いつでも、
気軽に読めるから、
自宅でのあき時間を
この漫画の読書に使った。
その結果が、10時間を作り出すのに
半月必要であったということである。
時間とは、貴重である。
そして、こつこつとした積み重ねが必要で、
そして有効であることを
いまさらながら気づかされた。

さて、肝心の内容であるが、
前半は面白く読んだのだが、
後半があまり面白くなかった。
なぜかはわからない。
聖人というものを表現する難しさだろうか。
それとも、万人に適応できる
聖人像はどないからであろうか。
しかし、これまでつづいた
手塚治虫とのつきあいもやっと終わった。
長い付き合いだったが、堪能した。