2003年2月28日金曜日

17(95) 五〇代、大学で教養する: 2003.02.28

清水三喜雄著「五〇代、大学で教養する」
を斜め読みした。

私が在籍する大学に50歳になって
社会人入学をしたひとが書いた本である。
道庁を50歳で退職して、大学にきたのである。
共感を覚えるものがある。
なぜうちの大学を選んだかは不明である。
しかし、教養をしたいということはよく理解できた。
そして、大学の講義や試験を最大限に利用して、
教養を広げている感じがした。
では、この教養をどうするのだろうか。
あるいはどう発展させるのだろうか。
その点が気になるのだが、
それは、成果をもとめるのは性急すぎるのだろうか。
教養とはそんなものではないのだろうか。
では、なぜ、50台で、仕事をやめてまで、
まるで隠遁をするかのようにしてまで、
教養に執着するのだろうか。
私も、旧制高校時代の教養人にあこがれる。
そして隠遁者のような教養人にもあこがれる。
しかし、それは、望んでも詮無きことである。
現在の自分のおかれた立場で、
できる限り高みを目指して 教養人になること。
その方が価値があるのではないだろうか。
あるいは、それが現在の教養人の
あり方ではないのだろうか。
隠遁者のような教養人は、
現代社会でどう振舞えばいいのだろうか。

2003年2月27日木曜日

16(94) 科学と科学教育の源流: 2003.02.27

板倉聖宜著「科学と科学教育の源流」
(ISBN4-7735-0146-4 C0040)
を読んだ。

今まで読んだ板倉氏の著書の中では、
「磁石の話」 とこれがおもしろかった。
近代科学の源流をイギリスの科学者の歴史から探る
という視点は面白かった。
これは、多分自分が現在、
イギリスの科学史に興味を持っているからだろう。
しかし、私は、やはり科学史を研究するタイプではない
ことがよくわかってきた。
しかし、化学の歴史から発想や教訓を
得ることは大いにありえることだとも思った。

「科学というのは、その研究活動の性格そのものからして、
教育活動と不可分に結びついている」

「「世界の学者たちに読んでもらうことよりも、
自分のまわりにい実験哲学愛好者たちに理解してほしい」
と思って、自分の本を自国語で書くことにしたのです。」

「科学者たちの学会でも、集まりが悪くなれば、
科学の楽しい伝統に立ち返って、楽しい実験を見せながら
科学の話を楽しむ会を企画する。
王認学会がそうやって楽しい科学を
守ろうとした故事に習えば、
私たちも楽しい科学の授業を
実現できるようになるに違いない」

「問題は解くことよりも、明確に問題提起をすることのほうに
大きな創造性を必要とする」

「彼(ニュートン)の力学の数学的諸原理から、
<他のすべての自然現象が解明されるのではないか>
というのです。」

「科学は天才が支えるものではなく て、
社会が支えるものである」

「ガリレオは、大多数の人々が
いまなお<自明だ>と考えているその法則の誤りを
指摘して近代力学の基礎を築くことになったのだ」

「自然の法則の中には、そのまま観察さえすれば容易に
その法則がわかるものもあります。
しかし、多くのびとが長いあいだ
考え違いをするような事柄は、
そのまま実験したからといって、
その法則を発見しうるものではありません。」

「「遺伝的には、どんなに優れた資質をもっていても、
活躍の場を得なければ、その資質が開花しない」
とも言えるし、
「活気のある時代には、そんな資質の有無は
大した問題ではない」
ともいえるのです。」

「すぐれた科学者というのは視野が広くて、
多方面に関心をもち、豊かな物質観・自然観・科学観を
持っていたから、多方面の分野で
創造的な仕事ができたのだ」

「「法則」というものは、実験によってその真偽が
決められるものだが、
「原理」というものは、個々の実験には関係なく
「疑い得ない真理」と見されるものだ、ということです。」

2003年2月20日木曜日

15(93) ぼくらはガリレオ: 2003.02.20

板倉聖宣著「ぼくらはガリレオ」
(岩波科学の本4)
を読んだ。

板倉氏の書かれるの本にしては、
面白くなく感じた。
また、 私が読んだいくつかの子供向けの本としては
それほど面白い部類に入らなかった。
また、板倉氏が事実に基づき、
忠実に話や実験を構成している。
でも、面白くないのだが。
それは、多分、実験を中心としているからだ。
実験とは、自分ですること、自分で考えることが
楽しいはずだ。
それを実践しているのが仮説実験授業のはずだ。
それを本にすると必ずしも面白くない。
これは、いいことを示してくれた。
これは大いに示唆に富んでいる。
一種の反面教師としていい。

2003年2月18日火曜日

14(92) ヨーロッパ科学史の旅: 2003.02.18

高野義郎著「ヨーロッパ科学史の旅」
(ISBN44-14-003036-4 C1322)
を斜め読みした。

今度イギリスにいくので、
そのとき訪ねることができるところがあれば、
行こうと考えている。
そのためにイギリスのところだけ読んだ。

13(91) 新哲学入門: 2003.02.18

板倉聖宣著「新哲学入門」
(ISBN4-7735-0099-9 C0330)
を読んだ。
仮説実験という考えを自分の哲学として
わかりやすく解いた本であった。
内容的には、示唆に富んだ本であった。
しかし、わかりやすく書きすぎて、
深みがないように感じた。

「英国では、
「自然現象の中でもっとも自然観に関わるような
理論的に興味のある事柄を扱う学問」が
と呼ばれたのです。
だから、同じ自然科学でも、
科学や生物学や地質学など、
事実の記述が中心だった学問は
と呼ばれることは
ありませんでした。 」

「流行の後を追う生きからがいやなら、
大科学者の生きかたを真似したほうがいいと思うのです。」

「「必ずしも実験的手続きを経ずに、
すべての問題に答える学問」
-それは哲学の特徴でした。
哲学の魅力はそこにあったのですが、
また、その弱点もそこにあったのことを
忘れることはできません。」

「実験の本質は、自然であれ社会であれ、
対象に対する 正しい認識を得るために、
対象に対して、予想・仮説をもって目的意識的に
問いかけることにある」

「いつしか「エクスペリメント(experiment)=試験」と
「実験道具の操作法(manipulation)=実験」とが
混同されてしまった。」

「自然や社会の認識をふかめるためには、
自分自身が行動を起こすことが重要なのではなく、
結果がわかる以前に、自分たちの予想・仮説を
はっきり提起しておくことが決定的に大切なのだ」

「「実験と実践の違い」は、
「実験」は、「審理が確定していないからうあるもの」
であるのに対して、
「実践」は、「ほぼ間違いのない真理として確信している
理論に基づいてやるもの」という違いがあります。」

「実験は真理の基準ですから、
「実験が間違う」などということはあるはずがないのです。
間違えるのは、人々の予想か理論か、
実験操作だけなのです。」

「いくらたくさんの経験的事実を集めた理論でも、
それは<もっともらいしい解釈>つまり<仮説>に過ぎない。」

「一見馬鹿らしそうに見える理論も<ひとつの仮説>として、
今後の経験=実験によって確かめて見なければならない。」

「科学者たちは、「いくつかの仮説のうち、
どれが<すでに知られている事実に
もっともそうに説明したか>ではなく、
どの理論が<これまで知られていなかった事実>
とよく合うか」によって真理かどうか
判定しなければならない、
ということに気づいたのです。」

「経験事実というのは、
「いろいろな事実や空想をもとにして仮説を立てるときに
<すでに知られているいる事実>」を言い、
実験事実というのは、
「その仮説の正しさを検証するための行為の結果
初めて知られた事実のことで、仮説を立てた段階では
<まだ知られていない事実>」のことをいう、
と整理して考えるのです。」

「新しい理論はそれが革命的なものであればあるほど、
その承認の前に多くの抵抗があるのがふつうです。
いや、多くの抵抗がある発見こそが「革命的な理論」と
いえるのかも知れません。
理論の中ではどんなに重要なことでも、
はじめからすんなり認められたよなものは、
革命的な理論とはみなされないのです。」

「現実の生きた科学は党派的で階級性を帯びていることも
少なくありません。しかし、科学上の真理は
実験のみによって決まるので、
党派的・か危急的には決まらないものです。」

「科学はいつも最終的な真理を実験によって決めたいと
願っていても、実際にはなかなか
党派性や階級性を脱しえない」

「「物事を哲学的に考える」というのは、一口に言うと、
「ものごとを根底から考え直すことだ」
ということができます。」

「科学は、すてに解決できたことだけについてにしか
教えてくれませんが、<森羅万象の学>であるところの
哲学は、「百パーセント確か」ということを
教えてくれない代わりに、どんな難問でも、
解決するための考え方だけは提供してくれるのです。」

「「自由に考える」とは、「新しい原理に囚われて考える」こと」

「ある考えに行き詰ったら、
もっと普遍的な原理にもどって考える」

2003年2月10日月曜日

12(90) 白亜紀に夜が来る: 2003.02.10

ジェームズ・ローレンス・パウエル著
「白亜紀に夜が来る」
(ISBN4-7917-5907-9 C1040)
を読んだ。

この本はよかった。
永久保存版だ。
地質学者が地質学のパラダイム転換にまとめるとすると
このようなやり方が必要である。
以前はやれたかもしれないが、
いまは、体力気力がない。
ネタとしては、私も2つほど思いつく。
しかし、それをおこなうには、大量の文献収集と
その読破が必要である。
今での状況では不可能である。
私の進む道がまだ混沌としている。
一時は、パウエルのところの留学研究を考えたが
少し違うようで判断できない。
しかし、この本は、地質学レヴューの見本のようだ。
よかった。

11(89) 天才数学者たちが挑んだ最大の難問: 2003.02.10

アミール・D・アグセル著
「天才数学者たちが挑んだ最大の難問」
(ISBN4-15-208224-0 C0041)
を読んだ。

短いからあっという間に読めた。
しかし、数学の歴史が述べられている。
ドキュメンタリーとしては、
サイモン・シン著「フェルマーの最終定理」
の方が面白かった。

2003年2月9日日曜日

10(88) 天才は冬に生まれる: 2003.02.09

中田力著「天才は冬に生まれる」
(ISBN4-334-03171-4 C0240)
を読んだ。

細切れを集めたような本だ。
著者としては、日本語の本がこれで3冊目だが、
だんだん質が低下している。
残念なことだ。
中田氏は一線級の研究者なのだから、多作する必要はない。
いいものをじっくりと書いてほしい。

コペルニクスは、・・・それまで
「世の常識に反することは正しくない」とされたいたことが、
「常識に外れても正しいことは正しい」
という概念を生み出したのである。

哲学とは「哲学すること」、つまりは、
正確な論理過程を持った思考を意味し、
科学とはその論理過程の普遍化を求めて行われる
「現象の数学化」である。
ともに、「過程」の正確さを求めたものであり、
結果は必然的に生まれる。
論理の過程が正しければ、
与えられた条件に従った「正解」が出る。

科学的真実が世の常識として認められるまでには、
心有る科学者の絶え間ない努力と、
地道な教育とが不可欠なのである。

科学的記載が総て真実であるとは限らず、
飽くまでもその時点で真実と思われるものの記載であることも、
忘れてはならない。

アイシンシュタインが人類に残してくれた最大の業績は、
「時」が個々のものであり、
決して総ての実存に共有されたものでないことを、
教えてくれたことである。

「数学が単純なものであることを信じないとすれば、
それは、人生がいかに複雑なものであるかに
気づいてないからに違いない」
ノイマンの残した言葉である。
"If people do not belive that mathematics is simple,
it is ony because they do not realize
how complicated life is."

人の心を打つ芸術家は、その分野の人であれ、
皆、優しい心を持った哲学者である。

2003年2月8日土曜日

9(87)●はじめての仮説実験授業: 2003.02.08

板倉聖宣編「はじめての仮説実験授業」
(国土社、1974)
を読んだ。

最近、科学教育の手法として
仮説実験授業という方法に興味がある。
これは、まず、子供たちが、この手法に非常に興味を持ち、さして最終的に科学に興味を持つということが、
いちばんの魅了である。
さらに、理論があるということもある。

関連の文献が大量にある。
しかも、この中心人物が板倉聖宣という個人が
作り上げたことがすごい。
しかも、板倉氏は国立教育研究所という、
文部省の組織にありながら、
あたらしい教育法を目指すという、
一種の謀反のようなことをおこないながら、
この方法論を広めたという強みがある。
現在、板倉さんに接触中である。

2003年2月3日月曜日

8(86) 科学者の熱い心: 2003.02.03

スイズ・ウォルパート、アリスン・リチャーズ著
「科学者の熱い心」
(ISBN4-06-2572574-5 C0240)
を斜め読みした。

23名の有名な科学者の
インタビューで構成されている。
もしかしたら、自分の新しく始めようとしている
師となる人がいないかと思ったのだが、
いなかった。
しかし、ここに掲載されている人は、
ほとんどリタイヤした人ばかりで、
若い人が少なかった。
それが残念だ。
現役の研究者のインタビューが欲しかった。