2002年7月29日月曜日

37 手塚治虫: 2002.07.29

大下英次著「手塚治虫-ロマン大宇宙」
(ISBN4-06-273425-7 C0195)
を読んだ。
実は、カナダに出かけているときに読みきっていた。
しかし、入力が遅れていた。

手塚治の伝記である。
彼の殺人的創作活動と
そして尽きぬアイデアと創作意欲、
そして常に最前線で漫画を書きたいという意欲。
これは、常人をはるかに凌ぐ情熱のものとになされた。
「ブッダ」を書くときの話である。

手塚は、さらにつづけた。
「仏といいう概念が、なかなかつかみにくいんですよね。
神とは、ちがうんでしょうかね」
竹尾は、自分の意見を述べた。
「仏というのは、人間の中の”命”と理解したらどうでしょうか。
”おろかな命””あらそいの命””おだやなかな命”・・・・
さまざまな”命”のなかで、清らかで力強い、
もっとも尊いものとしてあるのが仏ではないでしょうか」
手塚は、
「うーん、わたしには、信仰心がないから、
よくわからないんでしょうか」

手塚は、死については、こうブッダに語らせていた。
「死ぬということは、人間の肉体という殻から、
生命が、ただ飛び出していくだけだと思うがよい。
だから、死はなにも恐れることはない。
ほんの一瞬、とおりぬけるだけじゃ」
(中略)
ブッダが悟りを語る場面で、手塚はブッダに叫ばせていた。
「人間の心の中にこそ・・・・神がいる・・・・神が宿っているんだ!!」
竹尾は、”神”という言葉をみて手塚らしいなとおもった。
<”仏”が、”神”になっている。
でも、これが手塚先生の解釈なんだろう。
”仏性”とか”仏の生命”では、よしとしなかったんだ。
・・・きっと、手塚先生の”神”は、”仏”という概念もひっくるめた、
もっともっとおおきなものかもしれない、
あらゆる”命”、あらゆる”宇宙”をひっくるめた、
”大宇宙の生命”なんだ>

2002年7月21日日曜日

36 パイドン: 2002.07.21

プラトン著「パイドン」
(ISBN4-00-336022-2 C0110)
を読む。
「ソクラテスの弁明」と「クリトン」につづく三部作の最後のものである。
面白かった。
そして、最後の最後まで、論理の追及をする姿勢は壮絶さを感じた。
そして、ここには、弁証法、構造主義、還元主義、など
すべてがあるような気がする。

「本当に哲学のうちで、人生を過ごしてきた人は、
死に臨んで恐れを抱くことなく、
死んだ後にはあの世で最大の善を得るであろうとの
希望に燃えているのだが、
それは僕には当然のことのように思えるのだ。」
「おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、
これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、苦痛も、
なんらかの快楽も魂を悩ますことなく、
魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、
可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである」
「その人は、できるだけしいそのものによってそれぞれのものに向かい、
思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、
他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、
純粋な思惟それ自体のみを追及しようと努力する人である。」
「哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離することである。」
「これらすべての情念をそれと交換すべき唯一の正しい貨幣とは、
知恵であり、この知恵を基準にしてこれらすべての情念が売買されるならば、
あるいは、この知恵とともに売買されるならば、
その時、本当に、勇気、節制、正義、知恵を伴ったすべての真実の徳が
生ずるのではないか。」
「なせそれが生成し、滅亡し、存在するのかを、
この自然科学的な方法によっては、
知っているとはもはや確信できないのだ。
その代わり、僕は別の方法をおもいつくままに捏ねあげたのだが、
この自然科学的方法とは金輪際おさらばだ」
「それぞれの場合に、僕がもっとも強力であると判断する
ロゴスを前提として立てたうえで、
このロゴスと調和すると思われるものを真と定め、
調和しないと思われるものを真でないと定めるのだ。
問題が原因についてであれ、その他何についてであれ、同様である。」
「ただ、僕は美によってすべての美しいものは美しい、と主張するのである。
なぜなら、自分自身に対して答えるにせよ、他人に対して答えるにせよ、
これがもっとも安全確実な答えであるように僕には思われるからだ。」
「大地を支えるためには、
宇宙そのものがあらゆる方向において一様であること、
大地そのものが均衡していることで、充分なのだ。」
「いやしくも、その生涯において、
肉体にかかわるさまざまな快楽や装飾品を
自分自身にとってはかかわりのないものであり、
善よりは害をなすものと考えて、これに決別した者であるからには。
そして、学習に関わる快楽に熱中し、魂を異質の飾りによってではなく、
魂自身の飾りによって、
すなわち、節制、正義、勇気、自由、真理によって飾り、
このようにして、運命が呼ぶときにはいつでも旅立つつもりで、
ハデスへの旅を待っている者でかぎりは。」
訳者の解説より
「ソクラテスは一文字も書かなかったからだ。
ソクラテスの哲学のすべては対話だった。
すなわち、「哲学する」とはかれにおいては
「対話する」ということなのであった。」
「歴史的なソクラテスが常に問い続けてきたことは
「いかに生きるべきか」という問いであり、
それはまた「自分自身の魂を配慮せよ」というよびかけでもあった。
(中略)
つまり、ソクラテスは真実の自己を求め続けていたのである。」

2002年7月17日水曜日

35 はじめての構造主義: 2002.07.17

橋爪大三郎著「はじめての構造主義」
(ISBN4-06-148898-9 C210)
読んだ。
非常にわかりやすく書いてある。
これも、多くの重要な点があったのだが、多すぎて、省略する。
この書は、永久保存である。

構造主義のおこなうとしていることが、よくわかった。
構造主義が目指したことは、
より人間に違い部分を解析的に調べることではなかったのか。
たとえば、言語学、人類学、民族学、精神学、神話、
などなど。
そして片や崩壊しつつある自然科学への結合も可能なのかもしれない。

でも、構造主義も非常に極端な還元主義ではないかと思う。
還元主義はわかりい。
でも、還元による要素から構造をつかんだとき、
その構造が、本当に真の姿なのだろうか。
自然科学が犯した過ちを、
人文科学が犯しつつあるのではないだろうか。
構造主義の祖レヴィ・ストロースによれば、
「構造主義には三つの源泉がある。
マルクス主義、地質学、それに精神分析。
これらに共通するのは、
目に視える部分の下に、
本当の秩序(構造)が隠れている、
と想定している点だ。
あるところまで調べがすすむと、急にそれがあらわれてくる。」
という。

(以下、本文よりメモ)
ソシュール「一般言語学講義」
ことばが持つ意味(言語として機能する)のに、歴史は関係ない。
ある時点で、ある範囲の人々に規則がわけもたれていれば、それで十分である。
言語の機能を知るのに、その歴史を捨象する(わざと考えないようにする)ことができる。
共時態:歴史を捨象したある時点の言語の秩序
通時態:共時態からつぎの共時態へ変化していく言語の姿
ラング:共時態の中でも人々に共通に分けもたれている規則的な部分
パロール:個々人にゆだねられている部分
言語学はまず、共時態のラングを研究対象にすべきである。
言語は、物理現象ではない。
物理現象として2つの面
言語名称目録説という面:言語の指し示す対照が物質的な存在である
言語が異なれば世界の区切り方も当然異なる。
言語の恣意性:言語が示すのは世界の実物ではなく、世界から勝手に切り取ったものである。
物理的な音声によってなりたっているという面:
言語が異なれば、どこにどういう区別を立てているかはことなってくる。区分の立て方が恣意的である。
「言語は差異のシステム」とか「対立のシステム」と表現される。
言語の恣意性を支えるのはメカニズムである。
シニフィアン:記号表現、意味するもの、能記
シニフィエ:記号内容、意味されるもの、所記
記号(シーニュ)=シニフィアン+シニフィエ
ここの言葉や記号がいかなるものかは、記号システムの内部の論理だけによって決まるので、それより外部の現象(実態)には左右されない。

音素
言語学にとって大切なのは、音を人びとがどう区別しているかである。
恣意的であるから、一種の文化、もしくは社会制度であるので、自然科学の方法ではだめである。
ヤーコブソンは、音素を弁別特性のの束と考え、音素の対立は、二項対立の組み合わせで表現できるとして。

機能主義
歴史主義、伝播主義に反対。構造主義もおなじ。
機能のみで説明する点が問題。
目的と手段の連鎖が循環論になる。
機能では説明できないことがある

理論とは、ややこしい問題に取り組むとき、思考の手助けになってくれるもの。

社会の基本的な形は、交換のシステムである。
純粋な動機(交換のための交換)にもとづくものである。

神話学の研究の手順
神話の集合:似た神話をひと束にして考える。
神話素に分割:神話の一番小さい単位に分割
対立軸の発見:神話素を貫くもの
表の作成と解釈:神話素を対立軸で並べて表にする。そこからプラスαを見出す。
レビ・ストロースの構造主義の影響
神話分析が、テキストを破壊してしま無神論の学問
テキストは表層にすぎず、本当の「構造」はその下に隠されている、とみる。
ヨーロッパの知のシステムを支える部分品
テキスト:構造主義は、テキストを読む態度を重視。同じテキストも、筋さえ通っていれば、自分流に読んでかまわない。
主体:知のシステムは主体を前提にしている。構造主義は、「構造」のような主体を超えた無意識的・集合的な現象が重要だとする。
真理:構造主義では、真理は制度だと考える。制度は、人間がかってにこしらえたものだから、時代や文化によって別物になる。唯一の真理などない。

変換(置換)によっても不変に保たれているのが、<構造>だからである。変換がつきとめられれば、<構造>もつきとめられたことになる。

神話と数学。見かけこそ似ていないが、両方とも同じ秩序を隠している。二つの制度なのだ。
「主体不関与」の文体を創始した。
主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)を包む集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することをしめした。
神話は、一定の秩序(個々の神話の間の変換関係にともなう<構造>)をもっている。この<構造>は、主体の思考によって直接とらえられないもの、「不可視」のものなのだ。

証明の発見:ギリシア人による人類史上画期的な大発明。
証明(論証)によって、知を組織できることがわかった。
ユークリッド幾何学とアリストテレスの三段論法お論理学は2000年間、適用されてきた。
何が「正しい」かは、公理(前提)をどう置くかによって決まる。

視点が移動すると、図形は別なかたちに変化する(投影変換される)。そのときでも変化しない性質(投影変換に関しても不変な性質)を、その図形の一群に共通する「骨組み」のようなものといういみで、<構造>とよぶ。<構造>と変換とは、いつでも、裏腹の関係にある。<構造>は、それらの図形の「本質」みたいなものだ。が、<構造>だけでできている図形など、どこにもない。<構造>は、目に見えない。

ゲーデルの不完全性定理
数学が完全であることを、その数学自身によって示すことができない

構造主義は、文芸批判の理念として、これまで現れたもののなかでいちばん進んだもののひとつだ。しかsh、構造主義的批判は、「作者の主体性」や「作者の言いたいこと」は括弧のなかとなる。
方法としてもパターン化されている。

レビ・ストロースによれば、
「構造主義には三つの源泉がある。マルクス主義、地質学、それに精神分析。これらに共通するのは、目に見える部分の下に、本当の秩序(構造)が隠れている、と想定している点だ。あるところまで調べが進むと、急にそれがあらわれてきる。

2002年7月15日月曜日

34 ソクラテスの弁明・クリトン: 2002.07.15

プラトンの「ソクラテスの弁明・クリトン」
(ISBN4-00-336011-7 C0110)
を読んだ。
内容もさることながら、
ソクラテスの行きかたに感銘した。
デカルトと通じるところがある。
すべてにではなく、
自分の信じることには、
命をもかけてもよいという心がけである。
今の私の励みになる。

訳者久保勉氏は、
「この世界史上類なく人格の、
人類の永遠の教師における最も意義深き、
最も光輝ある最後の幕を描いた三部曲とも
称すべき不朽の名篇である」
としている。
そして最後のひとつが、パイドンである。
パイドンでは、
この2作で明言していない、霊魂不死の信仰が肯定されている。

「かれは何も知らないのに、何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとは思っていないからである。
されば私は、少なくとも
自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、
あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。」
「死を恐れるのは、
自ら賢ならずして賢人を気取ることに外ならないからである。」

2002年7月14日日曜日

33 方法序説: 2002.07.14

デカルトの「方法序説」
(ISBN4-00-336131-8 C0110)
を読んだ。
方法序説には、前に、
「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための」
がついていた。
知らなかった。
この本は、もともと
「屈折光学、気象学、幾何学」
の大部の論文集のための序説だったそうだ。
しかし、多くの書籍を、自由は考えが制限されると考え、
出版をあきらめていたというのは、
現在からは信じられないことである。
そして、デカルトは、まわりをだましてまでも、
自分の思考の自由を願ったのだ。
そんな時代だったのだ、1600年代という時代は。
「以上の理由で、私は教師たちからの従属から開放されるとすぐに、
文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。
そしてこれからは、私自身のうちに、
あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない
学問だけを探求しようと決心し、
青春の残りをつかって次のことをした。
(中略)
だがわたしは、自分の行為をはっきりと見、
確信をもってこの人生を歩むために、
真と偽を区別することを学びたいという、
何よりも強い願望を絶えず抱いていた。」
「わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしは、
自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、と。
後になって、おかのもっとよい見解を改めて取り入れm
前と同じものでも理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるためである。」
「結局のところ、あれわえは、目覚めていようと眠っていようと、
理性の明証性による以外、
けっしてものごとを信じてはならないのである。」
「わあしは生きるために残っている時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使いまいと決心した。」

2002年7月8日月曜日

32 虚数の情緒: 2002.07.08

吉田武「虚数の情緒 中学生からの全方位独学法」
(ISBN4-486-01485-5)
を読んだ。
やっと、読めたといったほうがいいかもしれない。

去年2001年の9月、金沢の地質学会で、
書店でたまたま見つけた本である。
この本は、いつから読みはじめただろうか。
トイレに置いておいて、
毎日少しずつ読んでいった。
読むのに、半年近くかかかったのだろうか、
それほどかけて味わう値打ちのある本だと思う。
大変いい本であった。
そして、渾身の力をいれて書かれたもの
であることがよくわかった。
そして、印刷、製本以外は、
すべて、自力でおこなわれたという、
著者の執念が込められている本である。

執念ではなく、この本は、良い本である。
そして、私が、目指したい、地質学の普及書も
このようなタイプのものを目指したたい。
今回は抜書きはなしである。
永久保存の書とする。