2002年8月27日火曜日

44 はじめまして数学 2: 2002.08.27

吉田武著
「はじめまして数学 2」
(ISBN4344-00139-7 C0041)
を読んだ。
「はじめまして数学 1」 と連続している。
総ルビの面白い本である。
この本の魅力は、挿絵にもあるのかもしれない。
絵は大高郁子さんが書かれている。
また、前著の「虚数の情緒」は、
「中学生からの全方位独学法」という副題があった。
今回のキャッチコピーは、
「大人には無理でも
子供には分かる」
「子供に帰れば大名も分かる!
家族で楽しい!」 
であった。 
いい本である。

2002年8月26日月曜日

43 暦と数の話: 2002.08.26

スティーブン・ジェイ・グールド著
「暦と数の話 グールド教授の2000年問題」
(ISBN4-15-208195-3 C0045)
を読んだ。
この本は、グールドが暦の2000年問題に関して 述べたものだが、
なぜ関心を持ったのかが、よくわかった。
サヴァンで日付曜日計算家の次男ジェシィが
いたからかもしれない。
ちなみに次男のイーサンは、ジャズギターリストである。
この問題は、決着のつけようがないとしている。
しかし、この本には、暦を越えた何かが存在する。 

この本の献辞は
「当代随一の情熱的合理主義者にして
今千年紀最高の科学の代弁者
わが友カール・セーガンのすてきな思い出に本書を捧げる」

「1980年代半ばに癌で死んでいくはずだったところを生還したとき、
私は、今の世で生きる数ある喜びのうち二つだけをあげた。
『私はいろいろなことを考えた。
二人のわが子の成長をじっと見守るためだけにも
生きねばならないし、
来るべき新千年紀を目前にして
去らねばならないなんてむごすぎる』」

「当時の人々には、自分たちがあくせく働きながら生きている年が
0年なのか1ねんなのかなどかんがえたことも なかったわけだし、
10年代が9年か10年か、1世紀が99年か100年かなんてことにも
頓着していなかったのだ。
紀元前/紀元後という年代表記システムが発明されたのは
6世紀のことだったし、
ヨーロッパに普及したのはそれよりずっと後のことである。」

「私が暦の問題を愛してやまないのは、
人間が抱える癖のずべてが、
そこに縮図として表れているからである。」

2002年8月23日金曜日

42 はじめまして数学 I: 2002.08.23

吉田武著「はじめまして数学 I」
(ISBN4-344-00138-9 C0041)
を読んだ。
自然数の説明と無限、素数へとすすむ。
全ルビの本。
私が出版をしたいと考えている本と同じである。
どれほどの子供が読むかどうかより、
こんなものを与える努力が必要である。
そうすれば、どの子供かが、いつか、どこかで読んでくれて、
感動してくれるかもしれない。
そんな本を目指すべきではないだろうか。
学問とは、思わぬところが発端となるかもしれない。

2002年8月15日木曜日

41 古風堂々数学者: 2002.08.15

藤原正彦著「古風堂々数学者」
(ISBN4-06-210186-6 C0095)
を読んだ。
彼の最近の文章を集めたものだ。
彼が、重んじる武士道の精神、
国語の重要性、合理的でないが守るべきこと、
などなど、日本人が、日本が
失いつつあるものを、彼は孤軍奮闘をして
取り戻せと叫んでいる。
私も、大いに共感するところがある。

「千年後の 中学生用世界史年表の二十世紀欄にかかれるのは、
「二度の世界大戦が起こり核爆弾が投下された」
くらいのもので、 
ひどい時代との印象 は免れ得ないであろう」

「少子化自体は、急激でない限り祝うべきことと思う。
問題は少子化をもたらしている原因のほうであろう」

「大学は産業界のためにあるのではない。
学問を守り抜くには
産業界などむしろ眼中にあってはならないとさえ言える。
そんな気概がないと産業に役に立たない多くの分野は
早晩切り捨てられてしまう」

2002年8月14日水曜日

40 干し草の中の恐竜 下: 2002.08.14

スチーヴン・ジェイ・グールド著「干し草の中の恐竜 下」
(ISBN4-15-208299-2 C0045)
を読んだ。
やはり、グールドは面白い。
そして、一徹に、同じことでも、何度も
間違っている人、社会に
警告や意見を発する。
それは、どんな権威や個人に対しても同じようにおこなう。
そして、教養とユーモアが彼の身上である。
抜書きしたいところが多数あったが、
多いので、省略する。

39 カシミール3D入門: 2002.08.14

杉本智彦著「カシミール3D入門」
(ISBN4-408-00776-5 C2026)
を読んだ。
地図を3次元的に表示する機能をもっている。
そのほかにも各種の機能を持ている。
私のパソコンにもインストールしているのだが、
遅くて使いものにならない。 
たぶん、何らの調整が必要なのだろうが、
今は、おこなっている余裕がない。
暇な時か、必要に迫られた時かに挑戦してみよう。
しかし、このような高機能ソフトが無料であること、
そして、国土地理院の数値地図が無料で添付されていることに驚く。
善意と趣味というのことだけで、ここまで達成できるのである。
素晴らしいことである。

2002年8月11日日曜日

38 プロも知らない「新築」のコワサ教えます: 2002.08.11

船瀬俊介著「プロも知らない「新築」のコワサ教えます」
(ISBN4-8067-4537-5 C0077)
を読んだ。
配慮されてない、新築は怖い。 
これは、前から気づいていたのが、
ここまで、データを示されると、その恐ろしさがよくわかる。
しかし、一方、ここまで、個人が気を配るのは、
不可能な気がする。
これを、職業とする人が必要である。
本当は、それが、建築のプロであるはずである。
でも、営利に走りすぎた企業は、そんなことを配慮しない。
これが、問題である。
わたしが、「木の城たいせつ」にひかれるは、
そこの配慮している、少ない企業であるかだ。

それと、この本で、ソーラーシステムについて書いてあったが、
これが、西壁で実用的で、採算が取れるという記述があった。
これは、北海道でも検討してみる価値はある。

2002年7月29日月曜日

37 手塚治虫: 2002.07.29

大下英次著「手塚治虫-ロマン大宇宙」
(ISBN4-06-273425-7 C0195)
を読んだ。
実は、カナダに出かけているときに読みきっていた。
しかし、入力が遅れていた。

手塚治の伝記である。
彼の殺人的創作活動と
そして尽きぬアイデアと創作意欲、
そして常に最前線で漫画を書きたいという意欲。
これは、常人をはるかに凌ぐ情熱のものとになされた。
「ブッダ」を書くときの話である。

手塚は、さらにつづけた。
「仏といいう概念が、なかなかつかみにくいんですよね。
神とは、ちがうんでしょうかね」
竹尾は、自分の意見を述べた。
「仏というのは、人間の中の”命”と理解したらどうでしょうか。
”おろかな命””あらそいの命””おだやなかな命”・・・・
さまざまな”命”のなかで、清らかで力強い、
もっとも尊いものとしてあるのが仏ではないでしょうか」
手塚は、
「うーん、わたしには、信仰心がないから、
よくわからないんでしょうか」

手塚は、死については、こうブッダに語らせていた。
「死ぬということは、人間の肉体という殻から、
生命が、ただ飛び出していくだけだと思うがよい。
だから、死はなにも恐れることはない。
ほんの一瞬、とおりぬけるだけじゃ」
(中略)
ブッダが悟りを語る場面で、手塚はブッダに叫ばせていた。
「人間の心の中にこそ・・・・神がいる・・・・神が宿っているんだ!!」
竹尾は、”神”という言葉をみて手塚らしいなとおもった。
<”仏”が、”神”になっている。
でも、これが手塚先生の解釈なんだろう。
”仏性”とか”仏の生命”では、よしとしなかったんだ。
・・・きっと、手塚先生の”神”は、”仏”という概念もひっくるめた、
もっともっとおおきなものかもしれない、
あらゆる”命”、あらゆる”宇宙”をひっくるめた、
”大宇宙の生命”なんだ>

2002年7月21日日曜日

36 パイドン: 2002.07.21

プラトン著「パイドン」
(ISBN4-00-336022-2 C0110)
を読む。
「ソクラテスの弁明」と「クリトン」につづく三部作の最後のものである。
面白かった。
そして、最後の最後まで、論理の追及をする姿勢は壮絶さを感じた。
そして、ここには、弁証法、構造主義、還元主義、など
すべてがあるような気がする。

「本当に哲学のうちで、人生を過ごしてきた人は、
死に臨んで恐れを抱くことなく、
死んだ後にはあの世で最大の善を得るであろうとの
希望に燃えているのだが、
それは僕には当然のことのように思えるのだ。」
「おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、
これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、苦痛も、
なんらかの快楽も魂を悩ますことなく、
魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、
可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである」
「その人は、できるだけしいそのものによってそれぞれのものに向かい、
思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、
他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、
純粋な思惟それ自体のみを追及しようと努力する人である。」
「哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離することである。」
「これらすべての情念をそれと交換すべき唯一の正しい貨幣とは、
知恵であり、この知恵を基準にしてこれらすべての情念が売買されるならば、
あるいは、この知恵とともに売買されるならば、
その時、本当に、勇気、節制、正義、知恵を伴ったすべての真実の徳が
生ずるのではないか。」
「なせそれが生成し、滅亡し、存在するのかを、
この自然科学的な方法によっては、
知っているとはもはや確信できないのだ。
その代わり、僕は別の方法をおもいつくままに捏ねあげたのだが、
この自然科学的方法とは金輪際おさらばだ」
「それぞれの場合に、僕がもっとも強力であると判断する
ロゴスを前提として立てたうえで、
このロゴスと調和すると思われるものを真と定め、
調和しないと思われるものを真でないと定めるのだ。
問題が原因についてであれ、その他何についてであれ、同様である。」
「ただ、僕は美によってすべての美しいものは美しい、と主張するのである。
なぜなら、自分自身に対して答えるにせよ、他人に対して答えるにせよ、
これがもっとも安全確実な答えであるように僕には思われるからだ。」
「大地を支えるためには、
宇宙そのものがあらゆる方向において一様であること、
大地そのものが均衡していることで、充分なのだ。」
「いやしくも、その生涯において、
肉体にかかわるさまざまな快楽や装飾品を
自分自身にとってはかかわりのないものであり、
善よりは害をなすものと考えて、これに決別した者であるからには。
そして、学習に関わる快楽に熱中し、魂を異質の飾りによってではなく、
魂自身の飾りによって、
すなわち、節制、正義、勇気、自由、真理によって飾り、
このようにして、運命が呼ぶときにはいつでも旅立つつもりで、
ハデスへの旅を待っている者でかぎりは。」
訳者の解説より
「ソクラテスは一文字も書かなかったからだ。
ソクラテスの哲学のすべては対話だった。
すなわち、「哲学する」とはかれにおいては
「対話する」ということなのであった。」
「歴史的なソクラテスが常に問い続けてきたことは
「いかに生きるべきか」という問いであり、
それはまた「自分自身の魂を配慮せよ」というよびかけでもあった。
(中略)
つまり、ソクラテスは真実の自己を求め続けていたのである。」

2002年7月17日水曜日

35 はじめての構造主義: 2002.07.17

橋爪大三郎著「はじめての構造主義」
(ISBN4-06-148898-9 C210)
読んだ。
非常にわかりやすく書いてある。
これも、多くの重要な点があったのだが、多すぎて、省略する。
この書は、永久保存である。

構造主義のおこなうとしていることが、よくわかった。
構造主義が目指したことは、
より人間に違い部分を解析的に調べることではなかったのか。
たとえば、言語学、人類学、民族学、精神学、神話、
などなど。
そして片や崩壊しつつある自然科学への結合も可能なのかもしれない。

でも、構造主義も非常に極端な還元主義ではないかと思う。
還元主義はわかりい。
でも、還元による要素から構造をつかんだとき、
その構造が、本当に真の姿なのだろうか。
自然科学が犯した過ちを、
人文科学が犯しつつあるのではないだろうか。
構造主義の祖レヴィ・ストロースによれば、
「構造主義には三つの源泉がある。
マルクス主義、地質学、それに精神分析。
これらに共通するのは、
目に視える部分の下に、
本当の秩序(構造)が隠れている、
と想定している点だ。
あるところまで調べがすすむと、急にそれがあらわれてくる。」
という。

(以下、本文よりメモ)
ソシュール「一般言語学講義」
ことばが持つ意味(言語として機能する)のに、歴史は関係ない。
ある時点で、ある範囲の人々に規則がわけもたれていれば、それで十分である。
言語の機能を知るのに、その歴史を捨象する(わざと考えないようにする)ことができる。
共時態:歴史を捨象したある時点の言語の秩序
通時態:共時態からつぎの共時態へ変化していく言語の姿
ラング:共時態の中でも人々に共通に分けもたれている規則的な部分
パロール:個々人にゆだねられている部分
言語学はまず、共時態のラングを研究対象にすべきである。
言語は、物理現象ではない。
物理現象として2つの面
言語名称目録説という面:言語の指し示す対照が物質的な存在である
言語が異なれば世界の区切り方も当然異なる。
言語の恣意性:言語が示すのは世界の実物ではなく、世界から勝手に切り取ったものである。
物理的な音声によってなりたっているという面:
言語が異なれば、どこにどういう区別を立てているかはことなってくる。区分の立て方が恣意的である。
「言語は差異のシステム」とか「対立のシステム」と表現される。
言語の恣意性を支えるのはメカニズムである。
シニフィアン:記号表現、意味するもの、能記
シニフィエ:記号内容、意味されるもの、所記
記号(シーニュ)=シニフィアン+シニフィエ
ここの言葉や記号がいかなるものかは、記号システムの内部の論理だけによって決まるので、それより外部の現象(実態)には左右されない。

音素
言語学にとって大切なのは、音を人びとがどう区別しているかである。
恣意的であるから、一種の文化、もしくは社会制度であるので、自然科学の方法ではだめである。
ヤーコブソンは、音素を弁別特性のの束と考え、音素の対立は、二項対立の組み合わせで表現できるとして。

機能主義
歴史主義、伝播主義に反対。構造主義もおなじ。
機能のみで説明する点が問題。
目的と手段の連鎖が循環論になる。
機能では説明できないことがある

理論とは、ややこしい問題に取り組むとき、思考の手助けになってくれるもの。

社会の基本的な形は、交換のシステムである。
純粋な動機(交換のための交換)にもとづくものである。

神話学の研究の手順
神話の集合:似た神話をひと束にして考える。
神話素に分割:神話の一番小さい単位に分割
対立軸の発見:神話素を貫くもの
表の作成と解釈:神話素を対立軸で並べて表にする。そこからプラスαを見出す。
レビ・ストロースの構造主義の影響
神話分析が、テキストを破壊してしま無神論の学問
テキストは表層にすぎず、本当の「構造」はその下に隠されている、とみる。
ヨーロッパの知のシステムを支える部分品
テキスト:構造主義は、テキストを読む態度を重視。同じテキストも、筋さえ通っていれば、自分流に読んでかまわない。
主体:知のシステムは主体を前提にしている。構造主義は、「構造」のような主体を超えた無意識的・集合的な現象が重要だとする。
真理:構造主義では、真理は制度だと考える。制度は、人間がかってにこしらえたものだから、時代や文化によって別物になる。唯一の真理などない。

変換(置換)によっても不変に保たれているのが、<構造>だからである。変換がつきとめられれば、<構造>もつきとめられたことになる。

神話と数学。見かけこそ似ていないが、両方とも同じ秩序を隠している。二つの制度なのだ。
「主体不関与」の文体を創始した。
主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)を包む集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することをしめした。
神話は、一定の秩序(個々の神話の間の変換関係にともなう<構造>)をもっている。この<構造>は、主体の思考によって直接とらえられないもの、「不可視」のものなのだ。

証明の発見:ギリシア人による人類史上画期的な大発明。
証明(論証)によって、知を組織できることがわかった。
ユークリッド幾何学とアリストテレスの三段論法お論理学は2000年間、適用されてきた。
何が「正しい」かは、公理(前提)をどう置くかによって決まる。

視点が移動すると、図形は別なかたちに変化する(投影変換される)。そのときでも変化しない性質(投影変換に関しても不変な性質)を、その図形の一群に共通する「骨組み」のようなものといういみで、<構造>とよぶ。<構造>と変換とは、いつでも、裏腹の関係にある。<構造>は、それらの図形の「本質」みたいなものだ。が、<構造>だけでできている図形など、どこにもない。<構造>は、目に見えない。

ゲーデルの不完全性定理
数学が完全であることを、その数学自身によって示すことができない

構造主義は、文芸批判の理念として、これまで現れたもののなかでいちばん進んだもののひとつだ。しかsh、構造主義的批判は、「作者の主体性」や「作者の言いたいこと」は括弧のなかとなる。
方法としてもパターン化されている。

レビ・ストロースによれば、
「構造主義には三つの源泉がある。マルクス主義、地質学、それに精神分析。これらに共通するのは、目に見える部分の下に、本当の秩序(構造)が隠れている、と想定している点だ。あるところまで調べが進むと、急にそれがあらわれてきる。

2002年7月15日月曜日

34 ソクラテスの弁明・クリトン: 2002.07.15

プラトンの「ソクラテスの弁明・クリトン」
(ISBN4-00-336011-7 C0110)
を読んだ。
内容もさることながら、
ソクラテスの行きかたに感銘した。
デカルトと通じるところがある。
すべてにではなく、
自分の信じることには、
命をもかけてもよいという心がけである。
今の私の励みになる。

訳者久保勉氏は、
「この世界史上類なく人格の、
人類の永遠の教師における最も意義深き、
最も光輝ある最後の幕を描いた三部曲とも
称すべき不朽の名篇である」
としている。
そして最後のひとつが、パイドンである。
パイドンでは、
この2作で明言していない、霊魂不死の信仰が肯定されている。

「かれは何も知らないのに、何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとは思っていないからである。
されば私は、少なくとも
自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、
あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。」
「死を恐れるのは、
自ら賢ならずして賢人を気取ることに外ならないからである。」

2002年7月14日日曜日

33 方法序説: 2002.07.14

デカルトの「方法序説」
(ISBN4-00-336131-8 C0110)
を読んだ。
方法序説には、前に、
「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための」
がついていた。
知らなかった。
この本は、もともと
「屈折光学、気象学、幾何学」
の大部の論文集のための序説だったそうだ。
しかし、多くの書籍を、自由は考えが制限されると考え、
出版をあきらめていたというのは、
現在からは信じられないことである。
そして、デカルトは、まわりをだましてまでも、
自分の思考の自由を願ったのだ。
そんな時代だったのだ、1600年代という時代は。
「以上の理由で、私は教師たちからの従属から開放されるとすぐに、
文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。
そしてこれからは、私自身のうちに、
あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない
学問だけを探求しようと決心し、
青春の残りをつかって次のことをした。
(中略)
だがわたしは、自分の行為をはっきりと見、
確信をもってこの人生を歩むために、
真と偽を区別することを学びたいという、
何よりも強い願望を絶えず抱いていた。」
「わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしは、
自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、と。
後になって、おかのもっとよい見解を改めて取り入れm
前と同じものでも理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるためである。」
「結局のところ、あれわえは、目覚めていようと眠っていようと、
理性の明証性による以外、
けっしてものごとを信じてはならないのである。」
「わあしは生きるために残っている時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使いまいと決心した。」

2002年7月8日月曜日

32 虚数の情緒: 2002.07.08

吉田武「虚数の情緒 中学生からの全方位独学法」
(ISBN4-486-01485-5)
を読んだ。
やっと、読めたといったほうがいいかもしれない。

去年2001年の9月、金沢の地質学会で、
書店でたまたま見つけた本である。
この本は、いつから読みはじめただろうか。
トイレに置いておいて、
毎日少しずつ読んでいった。
読むのに、半年近くかかかったのだろうか、
それほどかけて味わう値打ちのある本だと思う。
大変いい本であった。
そして、渾身の力をいれて書かれたもの
であることがよくわかった。
そして、印刷、製本以外は、
すべて、自力でおこなわれたという、
著者の執念が込められている本である。

執念ではなく、この本は、良い本である。
そして、私が、目指したい、地質学の普及書も
このようなタイプのものを目指したたい。
今回は抜書きはなしである。
永久保存の書とする。

2002年6月27日木曜日

31 哲学の教科書: 2002.06.27

中島義道「哲学の教科書」
(ISBN4-06-159481-8)
を読んだ。
久しぶりに、本を読み終えたような気がする。

この本は、哲学することの根本的なことをあつかったものである。
非常に面白かった。
そして、私はとってもじゃないが哲学者にはなれないことがわかった。
それだけでも、この本を読んだ価値があった。
この本では、哲学の根本的問題として、
死、時間、因果、意志、私、他者、存在
などについて、そのさわりを紹介している。

抜書きをしようとおもったが余りに多いのであきらめた。

2002年6月11日火曜日

30 はじめての哲学史講義: 2002.06.11

鷲田小彌太著「はじめての哲学史講義」(ISBN4-569-62171-6)を読んだ。わかりやすくさらりと哲学史を書いている。読みやすく、さらりと読めた。
デカルトの「わたしは考える。ゆえに、私は存在する」(cogito, ergo sum)は、
「第一原理。「思考」と「物質」は自立している。思考世界も、物質世界も、他に依存することなく存在している。第二原理。人間の思考はこの物質世界を「認識」(くまなく理解)することができる。第三原理。人間は平等である」
デカルトは物質世界を「明晰・判明」(clara et distincta)という方法で認識できるとした。デカルトの思考技術の方法(方法叙説)は、
「第一、即断や偏見を避け、疑う余地のないもの以外は、自分の判断の中に入れない。
第二、健闘しようとするものをできるだけ、また解決するに必要なだけ、多数の小部分に分割する。
第三、最も単純なものから、段階を踏んで、最も複雑なものに達するように、自分の思考を秩序だてて働かす。
第四、何一つ落とさなかったと確信するほど、広く健闘する」
ヒュームの哲学を、知覚一元論、不可知論、感性論をまとめ、
「1、知覚に現れない外界存在(物質)については、哲学は何もいうことができない。
2、知覚に現れた存在は、「知覚の束」である。この「知覚」は「断片」(瞬間)である。
3、知覚の断片を集合し、知覚の束に「同一性」を与え、ある秩序をもった存在にするのは、反復(繰りかえし同じことが生じる)であり、習慣である。
4、それゆえ、ある「原因」とそれに続くある「結果」の間には「必然性」はない。加工に同じことが繰りかえし起こったから、今度も同じことが起こるという蓋然性があるにすぎない。
5、ある原因から、ある結果が生じるという推論(理性認識)は、すでに過去になった知覚の連合にすぎない。理性はカームパッション(calm passion熱の冷めた感情)なのだ。
6、人間と人間集団を基本で動かすのはパッションの力(感性)である。反復、習慣、先例、伝統という形で個人と社会を基底で支配している衝動力、無意識との共同の無意識である。
私が思うに、ヒュームの考えは、「知覚の束」を集めて「同一性」を与え、「反復」であり、習慣によってある秩序が与えられている。そこには、原因と結果という必然性がなく、習慣による蓋然性しかない。というあたりは、面白い。もし、地質学から、原因と結果という必然性がきえたら、地質学という学問は成り立つか、蓋然性だけで地質学が成り立つかどうか、などというのは、面白い命題である。
「構造主義の登場によって、ヒューマニズムか反ヒューマニズムか、資本主義か社会主義か、階級闘争か否か、知か無知か、科学か神話か、等の「二項対立」的構図ではことがらが解決しないことがわかるようになります」

2002年6月3日月曜日

29 構造主義科学論の冒険: 2002.06.03

池田清彦著「構造主義科学論の冒険」(ISBN4-06-159332-3 C0140)を読んだ。久しぶりに、しっかりしたものを読んだ。
構造主義に基づいた科学論の展開である。面白かったが、やはり理解できない部分があった。
本文より。
「 理論(構造)というのは我々の頭の中にあるのであって、我々とは独立にどこかにあらかじめころがっているわけではありません。理論は外部世界の中に発見するものではなく、我々の頭の中に発見するものです。頭の中にある何かを発見することを発明と呼ぶとするれば、理論は発明されるべきものなのです。
ここで人間の脳の機能は、何らかの限界性を持つと考えれば、人間の脳が発明し得る可能な構造(理論)はすでにあらかじめ決定しているとも考えられます。すなわち我々は、あらかじめわかる事しかわからないのです。」
「ダーウィンの功績は、生物はすべて進化しうる構造(形式)をもっていること明らかにし、その形式を記述したことにあります。すなわちダーウィンは、生物であることと、進化をすることは実はおんなじだと言ったわけです。」
「変異の内部形式を問わなくとも、生物の変化(小進化)は説明できるでしょう。しかし変異の内部形式を問わなければ、壮大な進化史の全部を説明できっこない、と私は考えます。」
「多元主義の原則はポジティブなものでなく、ネガティブなものです。他の文化や伝統を抑圧する一元論的なルールを認めない、というのが多元主義の唯一のルールです。人々の恣意性の権利を擁護するとは、制度、文化、伝統自体を擁護するのではなく、それらの無根拠なルールに対する人々の選択の自由を保障するということです。多元主義社会の規範(もちろんこれも無根拠なものです)は人々の恣意性の権利(すなわち自立的な選択と拒絶)を勘案することなく、不可避にこれを侵害する制度を排除しよう、ということだけです。」

2002年5月18日土曜日

28 ネンアンデルタール:2002.05.18

ジェン・ダーントン著「ネアンデルタール」(ISBN4-7897-1530-2 C0197)
を読んだ。
古人類学者が、その絶滅の説を考え、ネンアンデルタール人を発見して、彼らの絶滅の原因について考える。

その中の一節。
「新種はいつだって発見されているんだ。その肉が地元の市場で売られていたり、現地人が奇妙な模様のある毛皮を胸に飾っていたりすることさえある。前世紀には、地元にさまざまな逸話が伝えられているにもかかわらず、マウンテン・ゴリラの存在を信じる者なんかいなかった。誰も見たことがなかったからだ。ほんの3000人ばかりのアフリカ人を除いて」
「地球の表面から海を差し引き、砂漠と高山と極地を差し引いたら、あとに残るのはどのくらいだと思う?およそ20%だ。おれたちは地表の5分の1だけを占拠して、人間はどこにでもいる、ほかの者のための場所なんか残っていないと考えているにすぎない。競争相手の存在なんか想像さえしないんだ。だがな、この地球に棲んでいる人間が自分たちだけだなんて考えるのは、この宇宙に生物の存在する惑星は地球しかないと考えるの、同じくらい不合理なことじゃないのか」
「脅威がさほどでないものは珍説って扱いになる。学術誌では不利な扱いを受け、ほかの研究者にあざけられ、マスメディアはそれを面白おかしく取り上げる。だがこいつみたいに本当に革命的なものだと、向こうも全力を上げて阻止しにかかるんだ。昇進の道は絶たれ、町からは逐われ、波一つ表には出ない。誰だって間抜けに見られたくはないからな」
「予期しない逆境にもすぐに順応してしまうのが人類の特質だ。人類が生き延びてきた秘密は、意外とそんなところにあるのではないか」
遺伝的浮動とは、「基本的には遺伝に適用される統計だよ。小さな孤立した集合においては、ランダムな出来事の影響が拡大されて現れることがある。遺伝子に生じた突然変異が、あっというまに永久性を獲得してしまうのだ。より大きな集団で生じた場合に比べて影響力が大きく、劇的な変化が短時間のうちに成し遂げられることもある。」
「人間がジャングルの獣と違うのは道徳を持っている点、そして自分が確実に死ぬと知っている点だ。道徳と死、それが文明の二本の柱なのだ。それはほかのあらゆるものに優先するのだろうか-言語、学習、発明、科学的発見、医療、プトレマイオス、ガリレオ、ニュートン、パスツール、アインシュタイン。人類最初の発明である車輪のことを考える。」
「人間の耐久力というものを象徴しているように感じたのだ。絶対にあきらめないというこの態度、分の悪い賭けさえひっくり返してしまうことの忍耐力によって、人類はここまで生き延びてきたのだ。進化の中で選ばれた種となったのは、人類が進化というものに選択をまかせてしまわなかったからなのだろう。人類がつねに計画し、期待し、策をめぐらしてきた-歴史の中を抜け目なく渡ってきたのだ。」
同時期に共存していたネアンデルタールとホモ・サピエンスで、
「なぜわたしたちであって、彼らではなかったのか?彼らが死に絶えたのに、なぜわれわれは生き延びたのか。知性はどちらも同じようなものだけど、向こうは体力に優れ、たぶん数も多くて、少なくとも百万を超える個体がいたはず。(中略)彼らはどんな重要な特性を欠いていたのか(中略)欺瞞よ。他人を騙す能力」
「ある面で、欺瞞と知性の関係は切っても切れないものなのよ(中略)それがあるから世界を操作することができる。人間は脳によって知性を得、狡猾さによって知恵を得たのよ」
「幻想と驚きをもたらす能力と思えばいいのだ(中略)それがあったから、芸術と魔法と音楽と物語が生まれた。それは、人間の持つ心の目であり、人類は想像力によって自身を外部に投影しているんだ」

2002年5月17日金曜日

27 さよなら古い講義:2002.05.17

田中一著「さよなら古い講義」
(ISBN4-8329-3261-6 C1037)
を読んだ。

この本では、「質問書方式」というやり方で、
講義をされた結果をまとめられ、
それは、誰にでも適用可能で、効果もあるはずと示されている。

しかし、私は、考えさせられたの同時に、
不思議な本でもあった。
この本は、学部の研究会に田中氏が来られて、頂いた本である。
著者の教育に取り組む熱意には心打たれるものがある。
それと、常に前向きに物事に取り組まれている姿勢にも
感動するものがある。

では、自分がこの教育方式を取り入れるかどうか、
判断に迷うところである。
私は私なりの方法論で、教育に取りくんでいる。
また、もし、この方式を学校の全教員が取り入れたら、
もはや革新的でなくなる。
また、多様化を考えるのであれば
他の手法も、常に工夫しておくべきであろう。
たしかし、面白い試みだし、充分な時間をとれば、
それに対応することも可能であろう。
自分の場合は、
今年は不可能である。
来年は、今年の様子と、自分の教育観を考えて
再考する必要があろう。
確かに、面白い方法である。

2002年5月1日水曜日

26 弁証法をどう学ぶか:2002.05.01

井尻正二著「弁証法をどう学ぶか」
(ISBN4-272-43046-7 C0010)
を読んだ。

井尻氏がどのようにして弁証法を勉強しているかを
エッセイ風にまとめたものである。
彼の哲学書が何故読みやすいかというと、
自然科学者あるいは地質学者の目で、
哲学を考えているからであろう。

その中で否定について考えている。
否定の歴史は、
アリストテレスに始まる形式論理学的否定は、
「否定判断としての否定」、
スピノザのいう「規定は否定である」とは
「規定即否定としての否定」、、
ヘーゲルの弁証法的否定は、
「すべての規定は否定である」という言葉は
「否定の否定(止揚)としての否定」
となっているという。

大変参考にある。
しかし、私の目指す地質の哲学とは違う。

2002年4月24日水曜日

25 進化の大爆発:2002.04.24

大森昌衛著「進化の大爆発 動物のルーツを探る」
(ISBN4-406-02756-4 C0046)
を読んだ。
この本の存在は、1年半ほど前から知っており、
3月の北京行とのときに手に入れ、
半分ほど読んで、
そのご転職のどたばたで、
しばらく間が開いていたが、今日やっと読み終わった。
原生代後期からカンブリア紀にかけての
生物の進化をまとめた本である。
本書は、大森氏のライフワークである。

先カンブリア紀とカンブリア紀の境界は
私は最近興味をもった。
大森氏と、2度のわたる中国への調査で、
その境界に互いに興味があること、
そして、それぞれの視点が違うことも認めながら、
見解を一(いつ)にするところも多いことも判明した。
そして、最終的な結論として、
私との共著の論文を今年書くつもりである。
その論文に本書は参考なる。