2002年6月11日火曜日

30 はじめての哲学史講義: 2002.06.11

鷲田小彌太著「はじめての哲学史講義」(ISBN4-569-62171-6)を読んだ。わかりやすくさらりと哲学史を書いている。読みやすく、さらりと読めた。
デカルトの「わたしは考える。ゆえに、私は存在する」(cogito, ergo sum)は、
「第一原理。「思考」と「物質」は自立している。思考世界も、物質世界も、他に依存することなく存在している。第二原理。人間の思考はこの物質世界を「認識」(くまなく理解)することができる。第三原理。人間は平等である」
デカルトは物質世界を「明晰・判明」(clara et distincta)という方法で認識できるとした。デカルトの思考技術の方法(方法叙説)は、
「第一、即断や偏見を避け、疑う余地のないもの以外は、自分の判断の中に入れない。
第二、健闘しようとするものをできるだけ、また解決するに必要なだけ、多数の小部分に分割する。
第三、最も単純なものから、段階を踏んで、最も複雑なものに達するように、自分の思考を秩序だてて働かす。
第四、何一つ落とさなかったと確信するほど、広く健闘する」
ヒュームの哲学を、知覚一元論、不可知論、感性論をまとめ、
「1、知覚に現れない外界存在(物質)については、哲学は何もいうことができない。
2、知覚に現れた存在は、「知覚の束」である。この「知覚」は「断片」(瞬間)である。
3、知覚の断片を集合し、知覚の束に「同一性」を与え、ある秩序をもった存在にするのは、反復(繰りかえし同じことが生じる)であり、習慣である。
4、それゆえ、ある「原因」とそれに続くある「結果」の間には「必然性」はない。加工に同じことが繰りかえし起こったから、今度も同じことが起こるという蓋然性があるにすぎない。
5、ある原因から、ある結果が生じるという推論(理性認識)は、すでに過去になった知覚の連合にすぎない。理性はカームパッション(calm passion熱の冷めた感情)なのだ。
6、人間と人間集団を基本で動かすのはパッションの力(感性)である。反復、習慣、先例、伝統という形で個人と社会を基底で支配している衝動力、無意識との共同の無意識である。
私が思うに、ヒュームの考えは、「知覚の束」を集めて「同一性」を与え、「反復」であり、習慣によってある秩序が与えられている。そこには、原因と結果という必然性がなく、習慣による蓋然性しかない。というあたりは、面白い。もし、地質学から、原因と結果という必然性がきえたら、地質学という学問は成り立つか、蓋然性だけで地質学が成り立つかどうか、などというのは、面白い命題である。
「構造主義の登場によって、ヒューマニズムか反ヒューマニズムか、資本主義か社会主義か、階級闘争か否か、知か無知か、科学か神話か、等の「二項対立」的構図ではことがらが解決しないことがわかるようになります」