2003年12月27日土曜日

72(151) 理系白書: 2003.12.27

毎日新聞科学環境部著「理系白書」
(ISBN4-06-211711-8 C0040)
を読んだ。

理系のおかれている現状が紹介されていた。
新聞に連載されていたものだから
ひとつひとつのインタビューや取材が
あまりにも短く、内容が上っ面だけのような気がした。
本として考えてた場合、
もう少し精選して、深い取材内容で構成してほしかった。
でも、理系の現状と問題点の概要を知るには
役に立った。

2003年12月25日木曜日

71(150) 死都日本: 2003.12.26

石黒耀著「死都日本」
(ISBN4-06-211366-X C0093)
を読んだ。

以前に知り合いの地質学者から
面白い本であるという紹介をされたものだ。
最近入手して呼んだ。
考えたら、久しぶりに仕事の関係のない
小説を読んだ気がする。
火山の描写が面白く、
私の日本再生と似たいような方向性を持っているので
非常に面白く読んだ。
私は、火山は専門としていなかったので、
いろいろ知らないことも書かれていて勉強になった。
やはり自然現象でもここまで破局的なものであると、
学術的に細かく書き込んであっても面白く読める。
しかし、破局的噴火のあとの
各種の震災や富士の噴火など、
「火山の冬」の話の前でこの本は終わっている。
そこが知りたいところでもあるが、
そこの話はまだ、研究者間でも
結論が出ていないところでもある。
だから、書きにくく、ますますSFっぽくなるのかもしれない。
でも、ぎゃくにいうとSFだから書けるところでもある。
もし、可能なら続編を読んでみたいものだ。
しかし、これ以降は火山の知識だけでなく、
防災、災害だけでなく、
広く地質学の素養が必要となるであろう。

2003年12月21日日曜日

69(148) パソコン悠悠漢字術2002: 2003.12.21

文字鏡研究会編「パソコン悠悠漢字術2002」
(ISBN4-314-10249-0 C2055)
を読んだ。

以前にもこの文系のパソコン利用本があった。
そのときは、このような漢字のプロジェクトの紹介だけであったが、
いまやCD-ROMとして11万字という大量の漢字が付属している。
それが既存のパソコンのシステムで利用できるようになっているのである。
新しい漢字も随時更新されているという。
すばらしいことである。
これは、漢字文化圏の文化を新しいテクノロジーで利用したものである。
西洋の人たちにはなかなかできない発想であろう。
しかし、このような異文化の人たちが
自分たちの文化を表現するための努力、
これが既存の技術を大発展させていくのである。

68(147) 哲学ってなんだ: 2003.12.21

竹田青嗣著「哲学ってなんだ」
(ISBN4-00-500415-6 C0210)
を読んだ。

前半は面白かった。
しかし、竹田氏が専門としている現象学になると、
とたんに面白くなくなる。
あるいは、近代のヘーゲル以降の話になると面白くなくなる。
これは、なぜなのだろう。
これは彼のせいではなく、
内容が私の興味とは違うからなのだろうか。
それとも近代の哲学が現実の人間の思うことと遊離しているのではないか。
それとも意識が高度になったせいか。
それとも近代人が馬鹿になってきたか。
それとも私がこれを読む能力がないか。
判断できない。
でも、古代や近世の哲学は、解説されるとよくわかる。
なのに、いくら解説されても、わかりにくいし、
まして面白くない。
なぜなのだろう。
いつもここに疑問がたどり着く。

67(146) 日本の名河川を歩く: 2003.12.21

天野礼子著「日本の名河川を歩く」
(ISBN4-06-272204-6 C0276)
を読んだ。

私が興味をもっている河川ではあるが、
はやり釣りをする人とは、興味が違う。
自然の中で遊ぶという点では理解できるものがある。
しかし、その人数が多くなるにつれて、
そこには営利が生じる。
既得権、商売、集客。
すると、それに反対する自称自然派の釣り師が怒る。
しかし、彼らがその釣りのすばらしさを宣伝したために、
釣り人口が増えたため、荒廃が味待ったのではないか。
などとどうもいろいろ思いは巡る。
だから、この本は最後まで読めなかった。

66(145) 宇宙人としての生き方: 2003.12.21

松井孝典著「宇宙人としての生き方」
(ISBN4-00-430839-9 C0244)
を読んだ。

驚いた。
私が考えていたことがたくさん含まれていた。
私のメールマガジンやホームページを読んだのかと思うほど、
似ている内容もあった。
これは、今の時代がこのような考え方を求めているかのかも知れない。
だから、識者はこのようなことを考えるのであろう。
もちろん私とは違うことも盛り込まれている。
それにこの内容はNHKの人間講座で放送された後、
本としてかかれたものである。

65(144) ダーウィンとアフォーダンス: 2003.12.21

佐々木正人著「ダーウィンとアフォーダンス」
(ISBN4-06-149335-3 C0211)
を読んだ。

ゼミ学生がアフォーダンスに興味をもっている。
それに関連して昔途中まで読んであきらめたこの本を思い出した。
そして読み直した。
やはりよくわからない。
あげられている例は面白い。
そしてダーウィンも面白かった。
そしてダーウィンが考えた知能というものの
実証法、観察のすごさを知らされた。
時代がダーウィンの進化論生んだのでなく、
やはりダーウィンだから進化論が生まれたのだ。
この本の趣旨とは違うが、
そんなことを感じだ。

64(143) 現場主義の知的生産法: 2003.12.21

関満博著「現場主義の知的生産法」
(ISBN4-480-05940-7 C0234)
を読んだ。

面白かった。
フィールドワークをしている社会学者がどう思っているか知りたい。
そして、著者のような生産量をできればいいと考えた。
しかし、私は同じフィールドワークでもあては地質という自然だ。
そこに詣でることは、必要だ。
そして、親しくすることで、よりよく知ることになる。
そんなことを私もしたい。
いい本であった。

63(142) 時間論: 2003.12.21

二間瀬敏史著「図解雑学 時間論」
(ISBN4-8163-3055-0 C0042)
を読んだ。
私が知りたい哲学的な部分ではなく、
物理的時間につていの解説書であった。
しかし、物理的側面も
このように時間に関してまとめて読んでみると
面白く感じた。
そしてエントロピーへの議論へと進んでいく。
物理の抽象的時間論、
あるいは歴史的時間論はかならずエントロピーへといく。
そこになにな当たり前すぎて面白みにかける気がする。

2003年11月13日木曜日

62(141) 全地球凍結: 2003.11.13

川上紳一著「全地球凍結」
(ISBN4-08-720209-7 C0244)
をよんだ。
良い本である。
新しい地球科学のモデルが生まれる臨場感がある。
ホフマン氏がいかにそのモデルを
つくりあげていったか。
そのモデルに他の研究者はどのように対処したか。
そして日本のグループは
どのような貢献をしたか。
そのあたりの研究の背景がよくわかった。
私は、川上氏を知っている。
川上氏は大量の文献を集めて、
そこから重要な点を要約するという能力に長けている。
それをいろいろな分野で行ってきた。
最近は縞々学を中心にして
生命と地球、そして現在の中心課題である
全休凍結へ関心が進んでいる。
成果もそれなりに上がられている。
リーダーとして優れている。
しかし、私は、この本を読んで、
反面教師をそこに見た。
私が得た重要な教訓は、
自分でデータを出すこと。
そして自分の考えを打ち出すこと。
つまりゼロからスタートして、
自分流のものを作り上げること。
これこそが科学の醍醐味であろう。
これをしないとどんなに成果を出したとしても、
その面白さ、満足感は、
自分流の満足感とは比べ物にならないだろう。
科学は結果である。
しかし、人間は心である。
心が満足できないものに邁進する気は起きない。
だから、私は、自分の今のやり方は
間違っていないと思えた。
そんなことを強く感じさせてくれた本である。

2003年10月25日土曜日

61(140) 地球外生命体 存在確率: 2003.10.25

アミーア・D・アクゼル著「地球外生命体 存在確率」
(ISBN4-562-03195-6 C0098)
を読んだ。
アクゼルの著作である。
前半は面白くなかったが、
後半の統計部分は面白かった。
インスペクションン・パラドックスなどは、
統計を常識的誤解して使っていることを
統計学がその間違いを教えてくれる。
しかし、最終的な答えを出すときの方法には疑問がある。
地球外生命体の存在確率は1という答えを出すのである。

60(139) 改訂日本砂浜紀行: 2003.10.25

江川善則著「改訂日本砂浜紀行」
(ISBN4-8231-0619-9 C0044)
を読んだ。
私がホームページでやっていることを
趣味として本にしたものである。
学術的なデータをとっているが、
目指す方向がわからないので、
その結論がない。
非常に面白い試みで、
これを本として出すことは有意義である。
しかし、だれかこも面白い素材を科学にする必要がないだろうか。

59(138) 漂着物考 浜辺のミュージアム: 2003.10.25

石井忠ほか著「漂着物考 浜辺のミュージアム」
(ISBN4-87275-825-0 C0339)
を読んだ。
この本は漂着物についてのいろいろな考察がされている。
漂着物にも石ころと何か共通するところがある。
多くの人が興味をもっているのだが、
学問や系統だった考察がされていない。
一部の趣味的な扱いがされているだけである。
ただ面白いだけのものに終わるのか、
これをどう体系化していくのかが問題だ。
著者の1人に後輩の古生物学者がいたので、驚いた。

2003年10月5日日曜日

58(137) 暗号理論: 2003.10.05

伊藤正史著「図解雑学暗号理論」
(ISBN4-8163-3465-3 C0055)
を読んだ。
平易に書かれた暗号についての本である。
暗号の意味に変遷や、暗号に関する理論的内容が説明されている。
しかし、その内容に難易がさまざまでわかりやすいところと、
わかりにくいところあった。
しかし、図がほとんど不要な内容でった。
もう少し図の必要な内容にすべきであろう。

57(136) 地磁気逆転X年: 2003.10.05

綱川秀夫著「地磁気逆転X年」
(ISBN4-00-500397-4 C0244)
を読んだ。
子供向けに平易に書かれた
地磁気についての本である。
なかなかいい本であった。
大学の研究室を舞台に、現実にあった事例を元に
高校生に教員、大学院生が地磁気に関して
各種の説明をするという構成になっている。
私は、地磁気の逆転に興味があったのだが、
予想通り電子機器には被害がありそうだが、
生物自体には大きな被害はなさそうである。
非常にいい本であった。

56(135) 寝ながら学べる構造主義: 2003.10.05

内田樹著「寝ながら学べる構造主義」
(ISBN4-16-660251-9 C0295)
を読んだ。
気軽に読めるようなタイトルだが、
じつは、独自の姿勢のものに書かれている。
確かに一般向けに書かれている。
しかし、構造主義の本質を
いかに、平易に伝えるかにに力が裂かれている。
なかなかいい本であった。

55(134) 科学の考え方・学び方: 2003.10.05

池内了著「科学の考え方・学び方」
(ISBN4-00-500272-2 C0240)
を読んだ。
池内氏が一気に書き上げた書である。
内容はそれなりに面白いものであった。
一気に書き上げたため、一気に読むには読みやすいが、
やはり引用や素材が、粗雑な感じがした。
自分の経験や、物語なら
このような書き方もいいのだが、
子供への科学への誘いの書だから、
もう少し丁寧に書いてほしかった。
その点が少し残念であった。

54(133) 活火山富士山: 2003.10.05

読売新聞社特別取材班+小山真人ほか「活火山富士山」
(ISBN4-12-150096-2 C1244)
を読んだ。
富士山で作られたハザードマップに基づいた
さまざま考察をしている。
全国のハザード地域の取材もしている。
しかし、新聞の連載記事をもとにしているせいか、
寄せ集めた感じがする。
でも、災害、防災を中心にした本は重要である。

2003年9月2日火曜日

53(132) 豊かさとは何か: 2003.09.02

暉峻淑子著「豊かさとは何か」
(ISBN4-00-430085-1 C0236)
を読んだ。
1989年に書かれた本だが、経済中心主義の異常さを指摘している。
しかし、どうすればいいのか。
国は、地方自治体は、企業、コミュニティ、家庭では、
という各面での解決策、解決例を示して欲しかった。
現状の批判ばかり、そしてヨーロッパのいいところばかりを紹介して、
日本の現状や国民性、歴史を踏まえた打開策を示して欲しかった。
批判ばかりで欲求不満になってしまった。
「生産の増大は、必ずしも豊かさに結びつかず、
かえって社会的にも個人的にもマイナスを与えている」
「社会保障と社会資本の充実こそは、
豊かさにとって、不可欠ものであることが痛感される。
それは人びとに安堵感を与え、平等に向かって道を拓き、
限りない競争から人びとを解放する。
追い立てられる活力ではなく、
ゆとりを持った創造的活力を発揮することが可能になる。」
「私はヨーロッパで「プライバシーのひとつは、
人の身のまわり半径50センチ以内に立ち入らぬこと」
と聞いたのを思い出す」
「アイヌの人々が、
「富を貯める人とは各個人の蔵にモノをためることではなく、
大地を豊饒に、自然を豊かにし、
自然の中に富を貯めることだ」と言ったのは、
きくべき言葉ではないだろうか。

2003年8月31日日曜日

52(131) アリになったカメラマン: 2003.08.31

栗林慧著「アリになったカメラマン」
(ISBN4-06-210944-1 C0072)
を読んだ。
栗林氏は昆虫写真家である。
アリの世界を取りたいために、
特殊なカメラを自分で開発してしまった人である。
以前テレビで、栗林氏の世界を紹介していたのを見た。
また、その作品も見ていた。
その人が子供向けに本を書いたのである。
知りたいこと、見たいことがある。
でもそれを実現できる道具がない。
ないものは自分でつくる。
単純な発想だが、なかなかできないことである。
私は、そんなやり方に共感を覚える。
私もそんな世界を築きたいと思っている。

2003年8月30日土曜日

51(130) ユニバーサル・デザイン: 2003.08.30

川内美彦著「ユニバーサル・デザイン」
(ISBN4-7615-2258-5 C0052)
を走り読みした。
有名なロン・メイスと親しくていたようだ。
アメリカの多くの障害者にかかわる人の取材をしている。
しかし、アメリカは障害に関する先進国かもしれないが、
日本には日本のやり方があるのではないかという気がした。
そんなオリジナリティを感じず、
途中でやめてしまった。

50(129) 火山とクレーターを旅する: 2003.08.30

白尾元理著「火山とクレーターを旅する」
(ISBN4-8052-0705-1 C3044)
を読んだ。
白尾氏とは面識があるのだが、
彼がこれほど撮影に努力しているをみて、
私も、今自分がやっていること、
しつこくやり続けていれば、
それになりせいから上がられるのではないかと感じた。
そして、それはあるときは人を感動させることにもなると思った。

49(128) 折り紙飛行機進化論: 2003.08.30

戸田拓夫著「折り紙飛行機進化論」
(ISBN4-14-088076-7 C0276)
を読んだ。
これは、子供が紙飛行機を飛ばしたがっていたので、
違った種類の飛行機を作ってあげるために読んだ。
いろいろなものが出ていたが、
いくつか折ったやはりすぐ飽きてしまった。
こんなものかもしれない。

2003年8月13日水曜日

48(127) 大江戸生活事情: 2003.08.13

石川英輔著「大江戸生活事情」
(ISBN4-04-263431-7 C0195)
を読んだ。

カバンに入れていて、出かけて時間があるとき読んでいた本だ。
江戸時代に合理精神が理解できる本である。
ネタは、以前のシリーズとほとんど同じである。

47(126) 文学部唯野教授: 2003.08.13

筒井康隆著「文学部唯野教授」
(ISBN4-00-260097-1 C0393)
を読んだ。

以前読んだのだが、ストーリのほうに興味があり、
批評に関する興味はなかった。
しかし、今回は、文学理論に関することに興味があった。
すると、小説のストーリ展開は、逆に興味がなく、
以前はまったく違うところに興味がでてきた。
すると、同じ作品でもまったく違った読み方ができるようになるのだ。
同じものでも、目的が違うとこれほど、
違った印象を持つのかということを
あらためて気づいた。

46(125) 図学雑学 複雑系: 2003.08.13

今野紀雄著「図学雑学 複雑系」
(ISBN4-8163-2389-9 C0041)
をだいぶ以前に読んだ。

複雑系の概説書である。
依然読んだような気がするが、
ほとんど覚えたいなかった。
だから、概要を復習するためによかった。

2003年8月11日月曜日

45(124) 仮説実験授業のABC: 2003.08.11

板倉聖宣著「仮説実験授業のABC」
(ISBN4-7735-0127-8 C0037)
をだいぶ以前に読んだ。

板倉氏の講演会の記録を起こしたものである。
そのために本人もいっているが、
論理的でないこともある。
しかし、伝えたいことはなんとなくわかる。
また、仮説実験授業の骨子のようなものが伝わる。
しかし、私に、この方法論は利用できるが、
乗っかることができない。
これは、以前にも感じていたことだ。
しかし、方法論、あるいは姿勢は
参考になるところがある。
したがって、今後も板倉氏の著書は
読んでいくつもりである。

2003年7月10日木曜日

44(123) 単位がわかると物理がわかる: 2003.07.10

和田純夫・大上雅史・根本和昭著
「単位がわかると物理がわかる」
(ISBN4-86064-013-6 C0042)
を読んだ。

面白かった。
単位について知らないことがいろいろわかった。
そして、その究極として、自然に対する
人類の智恵の及び方がわかったような気がする。
そして、まだ、私たちはわからないことが
いろいろあることも知らされた。

2003年6月30日月曜日

45(123) 科学的とはどういうことか: 2003.06.30

板倉聖宜著「科学的とはどういうことか」
(ISBN4-7735-0016-6 C0300)
を読んだ。

なかなか面白い本である。
そして、板倉氏の文章のうまさがあらわれている。
板倉氏のいつもの主張が表れている。
このような驚くようなネタが
どこでも、いつでも、見つかればいいのだが、
それがなかなかできないから苦労するのである。
これはこれで、手法としては成立すると思う。
そして、このネタが続く限り、独創性は維持できる。
でも、ネタがなくなったとき、どうなるのか。
仮説実験授業という手法は残るのだろう。
それはそれでいい。
でも、この本で人を驚かせ、感動させたような手法は
残らないのだろう。
むつかしいところだ。

2003年6月29日日曜日

44(122) 大江戸えねるぎー事情: 2003.06.29

石川英輔著「大江戸えねるぎー事情」
(ISBN4-06-185431-3 C0195)
を読んだ。

江戸時代のいろいろなものごとを
エネルギーに換算し、現代のエネルギー使用と比較したものである。
なかなか面白かった。
人間のするいわゆる手作業ともいうべきことでも、
ありとあらゆることができることを教えてくれた。
それも、地球に負担をかけることなくである。

2003年6月22日日曜日

43(121) 農をめぐる旅: 2003.06.22

秋山豊寛著「農をめぐる旅」
(ISBN4-8294-0182-6 C0061)
を読んだ。
これは、秋山氏の「農ある暮らし」への準備
あるいははじめたころにかけて
取材していたものをまとめたものである。
彼が農の達人、オピニオンリーダーたちを訪ね歩いたもので、
彼の農への道を確実にするためのプロセスだった。
かれは、周到なる準備をしていてのである。

「金もうけ、という点かいったら農業は、
そんなに割りの良い仕事ではありません。
金だけが目的なら、もっと別のことをやった方が良いでしょう。
でも、私は農業のやりがいというもは、
別のところにあると思っています」

42(120) 高校数学でわかるマックスウェル方程式: 2003.06.22

竹内淳著「高校数学でわかるマックスウェル方程式」
(ISBN4-06-257383-0 C0242)
を読んだ。

「物理学の理解としては、この関係を、
これ以上分解してりかいすることが不可能な基本的な関係
=法則
であるとして受け入れるということを意味する」

41(119) 宇宙と大地と 農あるくらしへ: 2003.06.22

秋山豊寛著「宇宙と大地と 農あるくらしへ」
(ISBN4-00-000180-9 C0095)
を読んだ。

日本人最初の宇宙飛行士、秋山氏が
TBSを退社して農業に従事し、
自給自足の生活を始めた。
そこには、地球環境の真の理解と、
強い信念と行動力があった。
多くの地球環境を考える人間は行動力がない。
そして真の解決も行動することである。
そんな痛烈な批判をみをもってかれは行っているいるようだ。

「こうしたなかで、「行動」こそ必要な時代であり、
私自身も行動するときではないかという想いは強くなりました。
私は「農ある暮らし」への準備を始めていました。」

「私の発想が、日本が豊かであることに規定されているのは確かです。
お金は大切だけれど全てでない、といいきれるほど豊かです」

「なぜ農なのかを語るのに、少し多弁になりすぎたかもしれません。
用は個人の暮らしのあり方を「自給」と
「精神の自在性」という方向から見直し、
「地球危機」という自分の状況認識と生き方のつじつまをあわせたいということです。
自分にとって「農ある暮らし」は無理のない選択であり、
手応えは予想以上でした」

「アメリカの農業は、もともと「家族経営」として発展したものでした。
(中略)
その自由を保障するものが「食料の自給」であり、
その単位が「家族」でした」

「一般的に専門家といわれる人々が社会的責任をとることはあるでしょうか。
過去「安全」と言われたたくさんの農薬が
現在では使用し禁止になっていることについて、
かつて「安全」と 判断した「専門家」は、
どのよう責任を取ったでしょうか」

「地球の資源が有限であるという認識は、
20世紀の指導原理であった「生産性」「経済成長」といった概念が
歴史的に限定された、いわは普遍性に欠ける
概念でしかなかったことの確認につなかがります」

「私たちがお金に換算されない価値について、
これが実はこれから求めるべき「豊かさ」の中身であると気づけば、
食卓の準備を種まきから始めることも
「豊かさ」であることがわかるでしょう。
歴史は確実に、そうした「豊かさ」に向かって歩を進めています」

「独自の技術力は、競争社会にあっては「力」です。
他に依存しなくとも、独自に開発できる能力を持つことが、
交渉する場合に力になるわけです。(中略)
自給する力があるからこそ、自立が可能のです。
経済的にも、技術的にも、独自の力を持つことが無理な場合は、
当面あきらめるほかありません。
しかし、可能であるにもかかわらず、みすみす可能性を放棄することは
”自主”の力を弱めることになります」

40(118) ぐれる!: 2003.06.22

中島義道著「ぐれる!」
(ISBN4-10-610009-6 C0210)
を読んだ。

この本は強烈である。
ストイックで真摯な哲学者中島氏の本である。
ありとあらゆる妥協を拒否して、
自分自身の信じることを貫くための生き方を書いている。
私には、到底できない生き方である。

人がぐれる理由をあげている。
(1)もうじく、どうせ死んでしまうこと。
(2)ひとは不平等に生まれついていること。
(3)人生は偶然に翻弄されること
(4)それにもかかわらず、「明るい顔」をすることがようきゅうされること。
(5)犯罪をなして社会から葬り去られれるだけのゆうきがないこと。
なかなか意味深な言葉である。

2003年5月31日土曜日

39(117) 文科系のための科学・技術入門: 2003.05.31

志村史夫著「文科系のための科学・技術入門」
(ISBN4-48005986-5 C0240)
を読んだ。

ゲーテは「熟視は観察へ、観察は思考へ、思考は統合へと
かならずや移行するものであって、
だから世界を注意深く眺めているだけで、
われわれはすでに理論化をおこなっているというこおができる」

「理科系の人」は、きちんと筋道を立てて考えること
”自然”と自然科学から学ぶのです

マンフォードは、「芸術と技術」の中で、
芸術について「芸術とは、人間が単なる動物として
存続するための必要条件を超えて、意味と価値のある世界を
自分で創造しようという必要から生じます」

”科学”の本質は、自然を対象にした知的好奇心を
満足させることであり、”科学”を進める最も基本的な力は
その知的好奇心そのものなのです

”技術(=機械)”が明確なる物質的な目的と
損得(経済概念)を持つ

2003年5月29日木曜日

38(116) 石狩川の旅 2003.05.29

小檜山博著「石狩川の旅」
(ISBN4-89453258-1 C0072)
を読んだ。

石狩川の写真集とその写真に基づいたコメントである。
期待はずれであった。
やはり写真に文章が負けてはならない。
また、文章に写真が負けてはならない。
写真にミスが数点でもあれば、
写真集全体の印象を悪くする。
そんな欠陥が目立った。

37(115) 大江戸仙界紀 2003.05.29

石川英輔著「大江戸仙界紀」
(ISBN4-263302-7 C0193)
を読んだ。

これで、この著者の一連の著作を読んだ。
最初のよかったが、やはり小説である。
現実感、マンネリ感が6冊も続けて読むと出てくる。
しかし、著者の主張はわかりいい。
江戸時代を過去の封建社会というだけで否定すべきでなく、
学ぶ分べき点が、いろいろあるということである。

「庶民たちが服従したのは、
武士たちが腰に帯びている大刀の威力ではなく、
いかに貧しくても、
自分たちに手の届かないほど高いモラルを守り、
教養を身につける禁欲性だったのではないだろうか」

「日本も、美しい風景を破壊することではじめて成り立った
富国強兵や産業立国などという立派な政策の代わりに、
この景観にはできるだけ手をつけず、
しかも、人口がこの時代より増えないようにして、
観光を主にして生きる清貧ならぬ清富の道を選んだ方が
結果として得策だったのではないだろうかという気がしてならない」

36(114) 大江戸遊仙記: 2003.05.29

石川英輔著「大江戸遊仙記」
(ISBN4-06185341-4 C0193)
を読んだ。
江戸時代の様子を知るのに役立った。

2003年5月18日日曜日

35(113) 大江戸仙花暦: 2003.05.18

石川英輔著「大江戸仙花暦」
(ISBN4-06-273614-4 C0193)
を読んだ。
江戸時代の風俗を知るのにいいものであった。

34(112) 大江戸仙境録: 2003.05.18

石川英輔著「大江戸仙境録」
(ISBN4-06-263972-6 C0193)
を読んだ。
江戸時代の風俗を知るのにいいものであった。

「人類は、古来それぞれの地域に適応して生きて来た。
人の生死も、大局的には土地の面積や地形、気候、動植物相などの
自然条件によって決められていた。
だからこそ、極端にも増えず減りもせずで、
長年生きのびて来られたのである」

33(111) 大江戸神仙伝: 2003.05.18

石川英輔著「大江戸神仙伝」
(ISBN4-06-183117-8 C0193)
を読んだ。
江戸時代の風俗を知るのにいいものであった。

2003年5月1日木曜日

32(110) 大江戸仙女暦: 2003.05.01

石川英輔著「大江戸仙女暦」
(ISBN4-06-263972-6)
を読んだ。
面白かった。
江戸時代のよさ、悪さなど
いろいろな視点を感じられた。

「みんながおしなべて貧乏なら、
福の神も少ない代わりに、災いの神の数も少なかったし、
人間は、もともと貧乏な人が圧倒的に多いのが普通でしょう。
その状態でのトラブルなら、
原因も単純で、過去の知識が生かせるから解決しやすくて、
昔話みたいに、お年寄りの智恵を借りれば
解決できることも多かったと思うわ」

2003年4月24日木曜日

31(109) 相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学: 2003.04.24

アミール・D・アクゼル著
「相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学」
(ISBN4-15-208446-4 C0042)
を読んだ。
彼の本は面白い。
大学の統計学の教員が、このような本を書くとは
アメリカの研究者のすばらしさを感じる。
また、彼が書くような数学的な内容を受け入れられる
アメリカの知的階級の多さに驚かされる。
いい本であった。

「宇宙は、膨張を加速している」

アインシュタインは、
「若い研究者に対し、創造的な科学者にとって
理想的な状況は何か、ということを話したことがある。
それは、学生の教授義務や大学機構に関わる職務、
あるいはキャンパスにおける政治的配慮がつきものの
伝統的な大学の地位にあることではなく、
むしろ研究のためにあるていど
自由な時間をもつことがきる、
卑しい、もしくは「知的ではない」仕事をもつことだ、
というものであった」

「ユークリッドは彼の幾何学を構成する要素を
点、直線、面と定義した(中略)
(1)任意の点から任意の直線を引くこと。
(2)直線を連続して延長すること
(3)任意の点と距離(半径)とをもって円を描くこと。
(3)すべての直角は互いに等しいこと。
(5)ある直線が2つの直線に交わり同じ側に作る内角の
側が二直角(180度)よりも小さければ、
この二直線をどこまでも延ばせば、
それらは二直角より小さい直角のある側で交わること。」

「第5公準は、奇妙である。
他の4つが簡潔で明白であるのに対し、
5番めは長ったらしい。
多くの数学者にはの目には、第5公準は自明というより、
証明されるべき定理のようにみえた」

「彼は重力(あるいは場)が存在しているところでは、
空間の幾何学は非ユークリッド的であることを導いたのだ」

「ここで彼は計量テンソルgμνに
ギリシア文字λで表される簡単な定数を
掛けた項を加えている。
この修正は、有効な方程式であれば
取りこぼしてはならない、
重要な物理上の性質が保たれるよう、
慎重に考え抜かれたものである。
アインシュタインがこの方程式に加えた変更は、
惑星の運動などの局所的な現象には
些細な影響しか与えないが、
宇宙規模のスケールの大きな現象については
多大な効果が生じるように企まれていた。
じつに巧妙な手際
-アインシュタインならではのものであった」

「このモデルはでは、宇宙は静的であり、
膨張もしなければ、収縮もしない。
その形状は球であって、限りがあって、一定の曲率をもつ」

「宇宙定数の導入を通じて、
アインシュタインは科学に寄与する数学的手法を
新たに想像した-そして、彼本人でさえ、
それを世界から取り上げることはできなかった。
この手法が宇宙の理論を説明しようとする
物理学者と工夫研究者にとって有用であるかどうかは、
いまや重要な問題となっていた」

「宇宙には質量にもとづいたどの理論を
成り立たせるにも十分な質量がなく、
目に見えない力があらゆるものを
より速くより速くと押しのけているのだ、と」

「ネタ・バーコールは、宇宙の質量密度は、
膨張と最終的な崩壊を遅らせるのに必要な密度の
20パーセントにしかならない、と結論した」

「近代宇宙論における数々の謎を解くかもしれない、
この重要な問題の解決策として
当然浮かび上がってくるのは、”宇宙定数を宇宙変数
-アインシュタインの方程式に含まれる時間、
あるいはその他の変数関数-
に変えてしまう” というものだろう。
しかし、そのすべてを知る者がどこにもいない。
アインシュタインは40年以上前になくなっており、
彼が宇宙定数を導入したときにもっていた、
自分の方程式のをつくり変えようとする勇気、洞察、知識を
持ち合わせた者は、だれひとりいなかったらしい」

「クエーサーはすべてわれわれから時間的空間的に
非常に離れたものだが、
ほとんどがほど同時期に創造されたことになる」

「アインシュタインは、わが手に入る
数学的手法の不足ゆえに、
自分の努力に限界があること理解していた」

「すべての学問領域が他の領域の発展による
助力を得られるようになってはじめて、
われわれは自然の究極的法則を理解し、
人間なりに見積もった神の方程式を
定式化できるようになるのかもしれない」

2003年4月13日日曜日

30(108) ゼロエミッションと日本経済: 2003.04.13

三橋規宏著「ゼロエミッションと日本経済」
(ISBN4-00-430491-1 C0236)
を読んだ。

「日本人には、昔から自然と共生してきた
長い伝統があります。」

「政府がリーダーシップを取らないのが悪い、
企業の責任がある、などと評論家的な言辞を弄していては、
時代を前に進めることはできません。
政府が悪ければそれを改めさせればよい、
企業行動に問題があれば、具体的にそれを指摘し、
改善を求めればよい。
民主主義国家では、国民が主役であり、
国民の行動力こそが時代を変えるエネルギーに
ならなければなりません。」

「百の説法より、ひとつの実行です」

「ゼロエミッションとは、廃棄物ゼロといういみです。
廃棄物をゼロにすることで、
資源を100%有効に利用し、同時に環境負荷を
まったく伴わない社会を目指すための「キーワード」です。」

「10世紀を支えた経済思想は、「劣化しない、無限の自然(地球)」が前提だった」

「今日の我々は「劣化する、有限の自然(地球)」を前提に
物事を考えていかなければならないことを知っている。」

「山口さんは言う。
私は金儲けだけが目的で事業を起こしたのではない。
・北海道の自然を守るためには、
何が大切で、何が無駄なのか
・北海道の人間を守るためには、
何が大切で、何が無駄なのか
・北海道の地域を守るためには、
何が大切で、何が無駄なのか
北海道の自然、人間、地域を守るために、
残された生涯をかける覚悟であると。」

「ISO14000シリーズは、(中略)
環境分野の国際規格のための番号である。」

「この時代(江戸時代)を支えた経済システムは、
自然の生態系と似て、無駄がなく、
環境保全型の「クローズドシステム」になっていた。
正確環境も清潔で、人間と自然がうまく調和していた。
自然を構成する一員としての人間が
十分に認識されていた。
循環型の経済社会を支えたのは、地元を住みよい、
持続可能な地域として維持していこうとする地域住民の
「コミュニティ・スピリット(愛郷精神)」にほかならなかった。
それぞれが持つ能力や労働力を提供して地域のために
奉仕する精神が、地域の環境を守るうえで
大きな成果をあげてきたのである。」

北九州方式
「第一は、市民の一人一人が
草の根のレベルで参加すること。
第二は、行政や企業を批判しているだけでは、
問題解決にならないという共通認識があること。
第三は、市民と行政、企業が情報を持ち寄り、
協力して問題可決にあたること。」

新しい常識の提案
・有限で、劣化する地球
・植物あっての動物
・人類だけが増え続けることはできない

29(107) 北の木と語る: 2003.04.13

西川栄明著「北の木と語る」
(ISBN4-89453-248-4 C0072)
を一部読んだ。
この本を買ったのは、
「桂」という木に興味があったからだ。
我が家は道産の桂を30%つかった
特徴的な家だからである。
この本によれば、西洋には桂という木がなく
英語でも"Katsura"というそうである。
カツラ(桂)は、
カツラ科の落葉広葉樹で、
学名は、Cercidiphyllum japonicum Sieb. et Zucc.
となる。
別名、コウノキ、オコウノキ、ショウユギがある。
日本全国にあるが、
日本の固有種に近い。
いまや北海道でも、天然のカツラ林はあまりないようである。
でも、北海道のカツラは、
「カツラといえば、日高のヒガツラ(緋桂)」
と呼ばれるほど良材とされているようだ。
緋桂とは、日のように濃く明るい赤紅色になるかである。
我が家も時間がたった部分は、
非常のいい色の木となっている。
そんなところは、ぜひ残して欲しいものだ。
ハート型とかわいい葉の桂を、
近所の原生林へ探しにいこう。

2003年4月2日水曜日

28(106) 北海道でいちばん住みたい家: 2003.04.02

山口昭・岩瀬孝子著「北海道でいちばん住みたい家」
(ISBN4-7979-8513-5 C0079)
を読んだ。
「世界でいちばん住みたい家」の北海道版である。
まあ、わかりやすかった。

27(105) 立花隆秘書日記: 2003.04.02

佐々木千賀子著「立花隆秘書日記」
(ISBN4-591-07659-8 C0095)
を読んだ。
立花隆の裏話がわかって面白かった。
しかし、最後の解雇のところがいただけなっかた。
いうべきでない、佐々木氏の評価が
これで下がるような気がする。
それまでは、有能な秘書であったのに、興ざめした。

2003年3月26日水曜日

26(104) 巨人の肩に乗って: 2003.03.26

メルヴィン・ブラック著「巨人の肩に乗って」
(ISBN4-88135-788-3 C0045)
を読んだ。
企画としては面白いのだが、
内容が面白くなさ過ぎた。
インタビューで構成されているが、
あまり整理されていないような気がした。
過去の天才科学者と現代の有名研究者の
肩に乗って作られた企画だが、
構成が面白くないような気がした。

ウォルパート「科学の定義はうちに潜む原則を見ること、
そして、理解することです。(中略)
自然と距離を置き、自然がどのように作用するのかを
理解しようとした。 (中略)
まちがっているかもしれないが、それはどうでもいい。
やり方が問題なのです」

ウォルパート「科学は日常の思考法とはちがって、
内面的な整合性を必要とします」

デイヴィス「ガリレオの最大の業績は、
それまで別々のものとされていた三つの分野ー
数学と物理学と天文学ーを結びつけたことだと思います」

デイヴィス「科学と呼ばれるものは、
いわゆるヨーロッパ・ルネサンス期に
絶大な影響力をもっていたふたつの伝統に
よりかかっていると、わたしは考えています。
ひとつめは、人間は論理と理性を応用することによって
世界を理解することができるという、古代ギリシア哲学です。
ふたつめは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教
といった一神教です。
つまり、われわれは立法者が理にそって定められた世界に
生きていて、自然界にも、天が定めた法ともいえる
秩序があるという考えです」

デイヴィス「科学が生まれるには非常に特殊な
世界観が必要だし、ほかの文化圏にそんな世界観が
ないことを考えると、大宇宙のどこかに
知的生命体が存在していも、
そんな世界観はもちえないのではないか、と思うのです」

デイヴィス「宗教の役割は世界のあり方を解釈すること
であって、断言することではないのです。(中略)
社会における宗教の役割を考えれば、
はっきりした役割がふたつあることに気がつきます。
ひとつは、大宇宙の創造者たる神に関することであり、
もうひとつは、どのように生きていくべきかとか、
善悪の問題とか、一個の人間としての責任であるとか、
そういったことです」

グリビン「ニュートンの研究でもっとも重要なのは、
彼が成し遂げたことではなく、やり方です。
理論や仮説を検証するために実験をおこなうという、
こんにちの科学的手法を考案したことこそ、大切なのです。
彼の前にそういうやり方をしていたのでは
ガリレオだけでした」

グリビン「三世紀かが過ぎたいま、ビックバンとか、
宇宙がどうやって生まれたのかを理解できるまでになった。
これはなずべて、もとをたどれな、複雑そうに見えることでも
単純な法則で説明できるという、
ニュートンの考えに行き着くのです」

「リース「アインシュタインの理論はニュートンの理論よりも
視野が広いのです。(中略)
ニュートンの法則が当てはまらないところでも、
当てはまるということです。
ニュートンには恣意的に見えるようなところでも、
アイシンシュタインの目には、自然に映るのです。
あるいは必然といってもいいですが。
アインシュタインがニュートンよりも深いところを見ていた
というのは、そぷいうことをいっているのです」

トマル「自然哲学という言葉は、ロイヤル・ソサエティが
使っていた言葉で、こんにちの物理学、化学、地質学などの
分野をすべてひとまとめにした呼び名です。
自然史(博物学)は植物などを扱う学問でした」

ファラディー「数学者がこういった主題で論文を書くとき、
その結果を、数学者向けの言葉だけでなく、
簡単で使いやすい言葉でも書いていただければ
すばらしいとおもうのですが、いかがでしょうか?」

グールド「自然選択の理論とは、
自然に関する三つの明白な事実に、
三段論法といってもいい推論をくわえたものにすぎません。
第一に、種および生物は生き残ることができるより
はるかに多くの子を生む。(中略)
第二に、あらゆる生物は異なる。(中略)
第三に、自然選択とは、系統樹的な理論だから、
その違いは遺伝する。
一部しか生き残れないのだから、だいたいにおいて、
生き残るのは、その土地の環境によりよく適応し、順応し、
適合するものとなるのです」

グールド「喜んだり不安に思ったりする人間に共通する
感性、すなわち人間性とも呼ばれる特性のほとんどは、
じつのところ、適応の原理にしたがって、
何らかの理由で脳が大きくなった結果、
副次的に生まれてきたのものなのです」

グールド「世界を変えるのは、ちっぽけな考えではなくて、
どのように自然が働くのかを我慢強く謙虚に
理解していくことだという主張は、ダーウィンの
基本理念にも当てはまります」

メイ「この理論(カオス理論)がいっているのは、
不確実な要素を排除した、考えうるもっとも単純な法則が、
予測不可能なくらい複雑な結果をもたらすことが
あるということなのです」

「アインシュタインの理論は、実験室での研究から
生まれたのではなく、彼のいう「思考実験」なるものから
生まれた」

グリビン「それはそれでとてもすばらしいことですが、
何の役にも立たない。
つまり、一般相対性理論の実用的な使い道は、
まだだれも思いついてないのです」

デイヴィス「わたしは、科学は真理を追い求めるもの
ではないと思います。
世界を信頼できる方法で描くことなのです」

「科学者はなぜ科学するのか?
ワトソンーどうしてものごとが起こるのかを知りたいだけで、
そういったことはずっとむかしから遺伝で
受け継いでいることだと思います」

「いままでみてきたようにー古代ギリシア人から数えて
ほんの一〇〇世代で、人間の脳にそなわった
科学的に思考が、迷信や無知の呪縛を解き、
驚くべき任務を開始したのだから。
みずからの創造主の探求とさえいえる任務を」

2003年3月14日金曜日

25(103) 仮説実験授業入門:2003.03.14

板倉聖宜・上廻昭編著「仮説実験授業入門」
を読んだ。
仮説実授業の似たような本を読んでいると、
同じような内容が書かれているの
どれがどれが違いがよくわからなくなってくる。
この本は、仮説実験授業のやり方を中心に書いた本である。
類書がまだ読んでないがある。

24(102) 未来の科学教育:2003.03.14

板倉聖宜著「未来の科学教育」
(ISBN4-337-65923-4 C3337)
を読んだ。
仮説実授業の実例を紹介している。
これは、多くの実践者の例からもよく分かっている。
教育を受けるものたちが、楽しむことは、重要なファクターである。
しかし、大人も楽しいだけの授業を望んでるのだろうか。
博物館にいたときは、それでいいと思っていた。
しかし、教養というべき、高度の知的レベルへと内容を求める時、
これだけでいいのかという気もする。
しかし、どうすればいいのかというアイデアはまだない。

23(101) 仮説実験授業:2003.03.14

板倉聖宜著「仮説実験授業 <ばねと力>による具体化」
を読んだ。
仮説実授業の核心にあたる部分である。
なかなかおもしろかった。
そして授業自体も面白かった。
これはこれでいいもである。
しかし、私の目指すものはこれではないことがわかってきた。
板倉氏がおこした科学教育の方法論は学ぶべき点が多くある。
非常に参考になった。

22(100) ダイヤモンド:2003.03.14

マシュー・ハート著「ダイヤモンド」
(ISBN4-15-208440-5 C0022)
を読んだ。

ダイヤモンドにまつわる私の断片的知識の一部を補完してくれた。
これでも、まだまだ一部のような気がする。
しかし、完全というものは、ありえないのであろうから、
これでよしとすべき本である。
ドキュメンタリーとしては面白かった。

21(99) 二つの文化と科学革命:2003.03.14

C.P.スノー著「二つの文化と科学革命」
(ISBN4-622-04970-8 C1010)
を読んだ。

1959年に講演した内容で、非常に有名な本である。
私は、読むまでの印象とかなり違っていた。
やはり、原典をちゃんと読むべきである。
この本では、講演後の批判に対する反論、
そして11の批判論文も紹介されている。

「私が望んだことは、それが次の二つのことについて
新しい動きを起こす呼び水となるぐらいのことであった。
第一には教育について、
第二には富み、特権をもつ人びとが不幸な人への関心をもっと深めることにあって、
後者について講演の後半で述べたことは、私自身の心になかでいつも重要な位置を占めていた」

「われわれ進んだ西欧社会は共通の文化ということについては、
その気配さえも失ってしまっている。
われわれが知っている最高の教育を受けた人びとは、
自分が主として抱く知的関心の分野で、
すでに意思疎通ができなくなっている」

20(98) ゲーデルの哲学:2003.03.14

高橋昌一郎著「ゲーデルの哲学」
(ISBN4-06-149466-x C0241)
を読んだ。

面白かった。
ゲーデルの完成性定理と不完全性定理の概略が
なんとなくわかったような気がした。
しかし、詳細は、記号論理学が理解できないと
よくわからないはずだ。

「さらに難解さを増幅させるのは、
不完全性定理そのものが進化していることある。
たとえば、ゲーデルの証明で中心となったのは「ω無矛盾性」
とよばれる概念である。
それがロッサーの証明では「単純無矛盾性」に拡張され、
タルスキーの証明では「真理性」に変わり、
チューリングの証明では「計算可能性」が用いられ、
最近のチャイティンの証明では「ランダム性」になっている」

「発言と事実が一致すれば真であり、
事実の一致しなければ偽であると考えている。
この考え方は、「真理の対応理論」と呼ばれ、
論理学で一般に適用されているものである。」

「真か偽か決定できる事実は、「命題」と呼ばれる。
命題は、発言でも文でもなく、事実そのものである」

「命題の関係を研究する学問分野を、「命題論理」と呼ぶ」

「幾つかの前提から一つの結論を導くような形式に、
命題に並べることができる。
このような形式で命題が並んだものを「推論」と呼ぶ」

「モダス・ロレンス」(化言三段論法否定式)」

「推論の研究で重要になるのは、
前提が結論を論理的に導いているか否かの問題である。
論理学では、ある推論において、
すべての前提が真ならば結論も必ず真であるとき、
その推論を「妥当」と呼ぶ。
妥当な推論においては、
すべての前提が真であるにもかからわず、
結論が偽になることは不可能である」

「彼は(アリストテレス)、
思考の道筋を明確にしたかったのである」

「数学に「証明」の概念を最初に持ち込んだのが、
ピタゴラスなのである」

「ユークリッドが、幾何学を総合的に体系化した。
彼は、「公理」と呼ばれる命題から出発して、
論理的な推論だけを用いて、
「定理」と呼ばれる新たな命題を導くシステムを構築した。
このようなシステムを「公理系」と呼ぶ」

「これらの命題を、理性的な人間ならば、
誰もが疑いなく受け入れる「自明の共通概念」とみなした」

「公理1 同じものに等しいものは互いに等しい。
公理2 等しいもに等しいものを加えれば、全体は等しい。
公理3 等しいものから等しいものが 惹かれれば、残りは等しい。
公理4 互いに重なり合うものは互いに等しい。
公理5 全体は部分より大きい。」

「ユークリッドは、これらの公理に加えて、
「公準」とよばれる
幾何学的公理を定義し、それらを用いて、
465におよぶ数学的定理を証明した」

「ユークリッド幾何学は、
自然界の真理を表す「唯一」の幾何学とみなされてきた。
17世紀のニュートンは、
絶対時間・絶対空間を前提とする力学体系「プリンキピア」を構成し、
18世紀のカントは、
人間の時間・空間認識を「先天的形式」とみなす哲学を打ち立てた」

「ラッセルとホワイトヘッドは、
命題の主語・述語に相当する部分にも踏み込み、
量化された命題がも厳密に扱えるようにした。
これが、「述語論理」である」

「システムSのすべての証明可能な命題が真であり、
すべての反証可能な命題が真でないとき、
Sを「正常」と呼ぶ」

「証明可能あると同時に反証可能である命題がSに存在しないとき、
Sを「無矛盾」と呼び、
それ以外のときSを「矛盾」と呼ぶ」

「システムSの命題Xが証明可能か反証可能のどちらかであるとき、
XをSで「決定可能な命題」と呼び、
それ以外のときXをSで「決定不可能な命題」と呼ぶ」

「システムSが正常であるとき、真であるにもかかわらず、
Sは証明可能でない命題が存在する。
この命題を「ゲーデル命題」と呼ぶ」

「第一不完全性定理 システムSが正常である時、
Sは不完全である 」

「第二不完全性定理 システムSが正常であるとき、
Sは自己の無矛盾を証明できない」

自己言及から、ゲーデル命題が生じる
相互言及からもゲーデル命題が生じる

「ゲーデルは「証明可能性」はシステム内で定義できるが、
「真理性」はシステム内で定義できないことに気付いていた」

可能性・必然性を扱うのが様相論理
信念・意識について扱うのが認知論理
過去・現在・未来に対応する命題を扱うのが時制論理
判断・意見に関する命題を扱うのが義務論理

「様相論理は、古典的な命題論理あるいは述語論理に、
一個の未定義論理記号を加えるだけで、
これらの文の解釈を可能にするように公理化されたシステムである。
様相論理の意味論を変更することによって、
認知論理・時制論理・義務論理としても解釈できるようになっている」

「ヴィトゲンシュタインが導いたのは、
「語りうることは明らかに語りうるのであり、
語りえないことについては沈黙しなければならない」
という結論であった」

「「論理哲学論考」の基調にある「写像理論」は、
事実の総和としての世界と、命題の総和としての言語に、
真理の対応関係が存在することを前提としている」

「カントールは、「数学の本質はその自由にある」と述べたが、
直感主義は、その「自由」を数学者自ら放棄する主張とも考えられた」

ゲーデル・ロッサーの不完全性定理
Sは、真でもあるにかかわらず決定不可能な命題Gを含む。
さらに、Sの無矛盾性は、Sにおいて証明不可能である
不完全定理の哲学的帰結
全数学を論理学に顕現することは不可能である。
全数学を公理化することは不可能である。

ゲーデル・タルスキーの不完全性定理
Sの真理性は、S内部では、定義不可能である。

ゲーデル・チューリングの不完全性定理
すべての真理を証明するチューリング・マシンは、存在しない。

チャーチ・チューリングの提唱
計算可能性は、チューリング・マシンの計算可能性と同等である。

人間機械論の仮説
思考は、アルゴリズムに還元できる。
人間は、ちーリング・マシンである。

チャーチの非決定性定理
任意のチューリング・マシンが何かを導くかを
事前に決定するアルゴニズムは存在しない。

チューリングの停止定理
任意のチューリング・マシンがいつ停止するかを
事前に決定するアルゴニズムは存在しない。

反人機械論の仮説
思考は、アルゴニズムに還元できない。
人間はチューリング・マシンを上回る存在である。

ゲーデル・チャイチンの不完全性定理
任意のシステムSにおいて、
そのランダム性を証明不可能なランダム数GがSに存在する。

2003年3月1日土曜日

19(97) 熱とはなんだろう: 2003.03.01

竹内薫著「熱とはなんだろう」
(ISBN4-06-257390-3 C0242)
を読んだ。

エントロピーの詳細をわかりやすく説明した本である。
なかでは、黒体放射からブラックホールのホーキング放射まで
扱われている。
非常にわかりやすい本であった。
中に、冗長な会話があったが、読む人によっては、
この会話がいいという思う人もいるかもしれない。
しかし、パターンとしては、
全編を会話でとおすか、
平文で通すか、
この書のように会話を織り交ぜるか
のどれかにしかならない。
この会話では、質問を投げかけている構成だが、
結構重要な質問である。
本文がくだけた文章としているので、
本文で十分容易さが伝わっている。
非常にわかりやすかった。
こういう本は重要であろう。

18(96) 哲学者かく笑えり: 2003.03.01

土屋賢二著「哲学者かく笑えり」
(ISBN4-06-273321-8 C0195)
を読んだ。

現在、イギリスの大学について興味があるので読んでみた。
本書の中に、「滞英往復書簡録」があったからだ。
独特のユーモアのエッセイであった。
今、このようなエッセイを読む余裕がない。
ただし、面白いことは面白い。
文庫本を2冊注文したが、もう一冊はいつ読めるかわからない。

2003年2月28日金曜日

17(95) 五〇代、大学で教養する: 2003.02.28

清水三喜雄著「五〇代、大学で教養する」
を斜め読みした。

私が在籍する大学に50歳になって
社会人入学をしたひとが書いた本である。
道庁を50歳で退職して、大学にきたのである。
共感を覚えるものがある。
なぜうちの大学を選んだかは不明である。
しかし、教養をしたいということはよく理解できた。
そして、大学の講義や試験を最大限に利用して、
教養を広げている感じがした。
では、この教養をどうするのだろうか。
あるいはどう発展させるのだろうか。
その点が気になるのだが、
それは、成果をもとめるのは性急すぎるのだろうか。
教養とはそんなものではないのだろうか。
では、なぜ、50台で、仕事をやめてまで、
まるで隠遁をするかのようにしてまで、
教養に執着するのだろうか。
私も、旧制高校時代の教養人にあこがれる。
そして隠遁者のような教養人にもあこがれる。
しかし、それは、望んでも詮無きことである。
現在の自分のおかれた立場で、
できる限り高みを目指して 教養人になること。
その方が価値があるのではないだろうか。
あるいは、それが現在の教養人の
あり方ではないのだろうか。
隠遁者のような教養人は、
現代社会でどう振舞えばいいのだろうか。

2003年2月27日木曜日

16(94) 科学と科学教育の源流: 2003.02.27

板倉聖宜著「科学と科学教育の源流」
(ISBN4-7735-0146-4 C0040)
を読んだ。

今まで読んだ板倉氏の著書の中では、
「磁石の話」 とこれがおもしろかった。
近代科学の源流をイギリスの科学者の歴史から探る
という視点は面白かった。
これは、多分自分が現在、
イギリスの科学史に興味を持っているからだろう。
しかし、私は、やはり科学史を研究するタイプではない
ことがよくわかってきた。
しかし、化学の歴史から発想や教訓を
得ることは大いにありえることだとも思った。

「科学というのは、その研究活動の性格そのものからして、
教育活動と不可分に結びついている」

「「世界の学者たちに読んでもらうことよりも、
自分のまわりにい実験哲学愛好者たちに理解してほしい」
と思って、自分の本を自国語で書くことにしたのです。」

「科学者たちの学会でも、集まりが悪くなれば、
科学の楽しい伝統に立ち返って、楽しい実験を見せながら
科学の話を楽しむ会を企画する。
王認学会がそうやって楽しい科学を
守ろうとした故事に習えば、
私たちも楽しい科学の授業を
実現できるようになるに違いない」

「問題は解くことよりも、明確に問題提起をすることのほうに
大きな創造性を必要とする」

「彼(ニュートン)の力学の数学的諸原理から、
<他のすべての自然現象が解明されるのではないか>
というのです。」

「科学は天才が支えるものではなく て、
社会が支えるものである」

「ガリレオは、大多数の人々が
いまなお<自明だ>と考えているその法則の誤りを
指摘して近代力学の基礎を築くことになったのだ」

「自然の法則の中には、そのまま観察さえすれば容易に
その法則がわかるものもあります。
しかし、多くのびとが長いあいだ
考え違いをするような事柄は、
そのまま実験したからといって、
その法則を発見しうるものではありません。」

「「遺伝的には、どんなに優れた資質をもっていても、
活躍の場を得なければ、その資質が開花しない」
とも言えるし、
「活気のある時代には、そんな資質の有無は
大した問題ではない」
ともいえるのです。」

「すぐれた科学者というのは視野が広くて、
多方面に関心をもち、豊かな物質観・自然観・科学観を
持っていたから、多方面の分野で
創造的な仕事ができたのだ」

「「法則」というものは、実験によってその真偽が
決められるものだが、
「原理」というものは、個々の実験には関係なく
「疑い得ない真理」と見されるものだ、ということです。」

2003年2月20日木曜日

15(93) ぼくらはガリレオ: 2003.02.20

板倉聖宣著「ぼくらはガリレオ」
(岩波科学の本4)
を読んだ。

板倉氏の書かれるの本にしては、
面白くなく感じた。
また、 私が読んだいくつかの子供向けの本としては
それほど面白い部類に入らなかった。
また、板倉氏が事実に基づき、
忠実に話や実験を構成している。
でも、面白くないのだが。
それは、多分、実験を中心としているからだ。
実験とは、自分ですること、自分で考えることが
楽しいはずだ。
それを実践しているのが仮説実験授業のはずだ。
それを本にすると必ずしも面白くない。
これは、いいことを示してくれた。
これは大いに示唆に富んでいる。
一種の反面教師としていい。

2003年2月18日火曜日

14(92) ヨーロッパ科学史の旅: 2003.02.18

高野義郎著「ヨーロッパ科学史の旅」
(ISBN44-14-003036-4 C1322)
を斜め読みした。

今度イギリスにいくので、
そのとき訪ねることができるところがあれば、
行こうと考えている。
そのためにイギリスのところだけ読んだ。

13(91) 新哲学入門: 2003.02.18

板倉聖宣著「新哲学入門」
(ISBN4-7735-0099-9 C0330)
を読んだ。
仮説実験という考えを自分の哲学として
わかりやすく解いた本であった。
内容的には、示唆に富んだ本であった。
しかし、わかりやすく書きすぎて、
深みがないように感じた。

「英国では、
「自然現象の中でもっとも自然観に関わるような
理論的に興味のある事柄を扱う学問」が
と呼ばれたのです。
だから、同じ自然科学でも、
科学や生物学や地質学など、
事実の記述が中心だった学問は
と呼ばれることは
ありませんでした。 」

「流行の後を追う生きからがいやなら、
大科学者の生きかたを真似したほうがいいと思うのです。」

「「必ずしも実験的手続きを経ずに、
すべての問題に答える学問」
-それは哲学の特徴でした。
哲学の魅力はそこにあったのですが、
また、その弱点もそこにあったのことを
忘れることはできません。」

「実験の本質は、自然であれ社会であれ、
対象に対する 正しい認識を得るために、
対象に対して、予想・仮説をもって目的意識的に
問いかけることにある」

「いつしか「エクスペリメント(experiment)=試験」と
「実験道具の操作法(manipulation)=実験」とが
混同されてしまった。」

「自然や社会の認識をふかめるためには、
自分自身が行動を起こすことが重要なのではなく、
結果がわかる以前に、自分たちの予想・仮説を
はっきり提起しておくことが決定的に大切なのだ」

「「実験と実践の違い」は、
「実験」は、「審理が確定していないからうあるもの」
であるのに対して、
「実践」は、「ほぼ間違いのない真理として確信している
理論に基づいてやるもの」という違いがあります。」

「実験は真理の基準ですから、
「実験が間違う」などということはあるはずがないのです。
間違えるのは、人々の予想か理論か、
実験操作だけなのです。」

「いくらたくさんの経験的事実を集めた理論でも、
それは<もっともらいしい解釈>つまり<仮説>に過ぎない。」

「一見馬鹿らしそうに見える理論も<ひとつの仮説>として、
今後の経験=実験によって確かめて見なければならない。」

「科学者たちは、「いくつかの仮説のうち、
どれが<すでに知られている事実に
もっともそうに説明したか>ではなく、
どの理論が<これまで知られていなかった事実>
とよく合うか」によって真理かどうか
判定しなければならない、
ということに気づいたのです。」

「経験事実というのは、
「いろいろな事実や空想をもとにして仮説を立てるときに
<すでに知られているいる事実>」を言い、
実験事実というのは、
「その仮説の正しさを検証するための行為の結果
初めて知られた事実のことで、仮説を立てた段階では
<まだ知られていない事実>」のことをいう、
と整理して考えるのです。」

「新しい理論はそれが革命的なものであればあるほど、
その承認の前に多くの抵抗があるのがふつうです。
いや、多くの抵抗がある発見こそが「革命的な理論」と
いえるのかも知れません。
理論の中ではどんなに重要なことでも、
はじめからすんなり認められたよなものは、
革命的な理論とはみなされないのです。」

「現実の生きた科学は党派的で階級性を帯びていることも
少なくありません。しかし、科学上の真理は
実験のみによって決まるので、
党派的・か危急的には決まらないものです。」

「科学はいつも最終的な真理を実験によって決めたいと
願っていても、実際にはなかなか
党派性や階級性を脱しえない」

「「物事を哲学的に考える」というのは、一口に言うと、
「ものごとを根底から考え直すことだ」
ということができます。」

「科学は、すてに解決できたことだけについてにしか
教えてくれませんが、<森羅万象の学>であるところの
哲学は、「百パーセント確か」ということを
教えてくれない代わりに、どんな難問でも、
解決するための考え方だけは提供してくれるのです。」

「「自由に考える」とは、「新しい原理に囚われて考える」こと」

「ある考えに行き詰ったら、
もっと普遍的な原理にもどって考える」

2003年2月10日月曜日

12(90) 白亜紀に夜が来る: 2003.02.10

ジェームズ・ローレンス・パウエル著
「白亜紀に夜が来る」
(ISBN4-7917-5907-9 C1040)
を読んだ。

この本はよかった。
永久保存版だ。
地質学者が地質学のパラダイム転換にまとめるとすると
このようなやり方が必要である。
以前はやれたかもしれないが、
いまは、体力気力がない。
ネタとしては、私も2つほど思いつく。
しかし、それをおこなうには、大量の文献収集と
その読破が必要である。
今での状況では不可能である。
私の進む道がまだ混沌としている。
一時は、パウエルのところの留学研究を考えたが
少し違うようで判断できない。
しかし、この本は、地質学レヴューの見本のようだ。
よかった。

11(89) 天才数学者たちが挑んだ最大の難問: 2003.02.10

アミール・D・アグセル著
「天才数学者たちが挑んだ最大の難問」
(ISBN4-15-208224-0 C0041)
を読んだ。

短いからあっという間に読めた。
しかし、数学の歴史が述べられている。
ドキュメンタリーとしては、
サイモン・シン著「フェルマーの最終定理」
の方が面白かった。

2003年2月9日日曜日

10(88) 天才は冬に生まれる: 2003.02.09

中田力著「天才は冬に生まれる」
(ISBN4-334-03171-4 C0240)
を読んだ。

細切れを集めたような本だ。
著者としては、日本語の本がこれで3冊目だが、
だんだん質が低下している。
残念なことだ。
中田氏は一線級の研究者なのだから、多作する必要はない。
いいものをじっくりと書いてほしい。

コペルニクスは、・・・それまで
「世の常識に反することは正しくない」とされたいたことが、
「常識に外れても正しいことは正しい」
という概念を生み出したのである。

哲学とは「哲学すること」、つまりは、
正確な論理過程を持った思考を意味し、
科学とはその論理過程の普遍化を求めて行われる
「現象の数学化」である。
ともに、「過程」の正確さを求めたものであり、
結果は必然的に生まれる。
論理の過程が正しければ、
与えられた条件に従った「正解」が出る。

科学的真実が世の常識として認められるまでには、
心有る科学者の絶え間ない努力と、
地道な教育とが不可欠なのである。

科学的記載が総て真実であるとは限らず、
飽くまでもその時点で真実と思われるものの記載であることも、
忘れてはならない。

アイシンシュタインが人類に残してくれた最大の業績は、
「時」が個々のものであり、
決して総ての実存に共有されたものでないことを、
教えてくれたことである。

「数学が単純なものであることを信じないとすれば、
それは、人生がいかに複雑なものであるかに
気づいてないからに違いない」
ノイマンの残した言葉である。
"If people do not belive that mathematics is simple,
it is ony because they do not realize
how complicated life is."

人の心を打つ芸術家は、その分野の人であれ、
皆、優しい心を持った哲学者である。

2003年2月8日土曜日

9(87)●はじめての仮説実験授業: 2003.02.08

板倉聖宣編「はじめての仮説実験授業」
(国土社、1974)
を読んだ。

最近、科学教育の手法として
仮説実験授業という方法に興味がある。
これは、まず、子供たちが、この手法に非常に興味を持ち、さして最終的に科学に興味を持つということが、
いちばんの魅了である。
さらに、理論があるということもある。

関連の文献が大量にある。
しかも、この中心人物が板倉聖宣という個人が
作り上げたことがすごい。
しかも、板倉氏は国立教育研究所という、
文部省の組織にありながら、
あたらしい教育法を目指すという、
一種の謀反のようなことをおこないながら、
この方法論を広めたという強みがある。
現在、板倉さんに接触中である。

2003年2月3日月曜日

8(86) 科学者の熱い心: 2003.02.03

スイズ・ウォルパート、アリスン・リチャーズ著
「科学者の熱い心」
(ISBN4-06-2572574-5 C0240)
を斜め読みした。

23名の有名な科学者の
インタビューで構成されている。
もしかしたら、自分の新しく始めようとしている
師となる人がいないかと思ったのだが、
いなかった。
しかし、ここに掲載されている人は、
ほとんどリタイヤした人ばかりで、
若い人が少なかった。
それが残念だ。
現役の研究者のインタビューが欲しかった。

2003年1月29日水曜日

7(85) 科学の大発見はなぜ生まれたか: 2003.01.29

ヨセフ・アガシ著「科学の大発見はなぜ生まれたか」
(ISBN4-06-257395-4 C0240)
を読んだ。

1週間ほど前に読んだのだが、
記入している暇がなかった。
8歳の子供も向けに書かれた、
科学哲学の本で、
なかなか面白本だが、
翻訳と内容に問題があった。

翻訳は、学生が講義でやったものを使っている。
そのせいか、子供向けなのむつかしい表現は、
いかにも直訳的な部分があって、
読みづらかった。
内容については、もっとわかりやすく書くべきである。
いい太古とがなんとなくわかるのだが、
これで、8歳の子供がわかったとは思えない。
したがって、この本は脚色しすぎである。
そうなら、大人向けのわかりやすい本を書くべできあろう。
これが、いい内容なの残念な点だ。

いかなる科学的成功も、
それが教育を受けた一般の人々に
届かない限り、 全面的なものとはなりません。
残念なことに、 ほとんどの専門家は、
ポップ・サイエンスのほうが、
それを模倣する完全な構造を持つ
科学以上に大きな利点を持っていることに気づきません。

科学の活動は、
問題およびその解決の試みからなる
果てしない対話であり、
相した解決の試みは、不明瞭だとか、
満足のいくものでないだとか、
あるいは偽であるとして、
批判されていくのである。

ただ科学者であるというだけで、
科学者をしんじてしまうのはとても非科学的なことだ。

ルネサンス科学やコペルニクス革命の中で
もっとも重要な発見はおろらく、
ギリシャ人がすべて同じ意見をもっていたわけではない
ということだろう。

「われわれが正しいのかまちがているのはか関係ない。
もし、われわれに話をきいてほしいならば、
あなたの正しさをわれわれに
証明してみせなければならない」

ガリレオをケプラーは一つののことで一致していた。
まちがいはどんなに小さくても、重大問題だと。

この実験の重要な点は、
実際にそれを実行することではなく、
その実験が明晰に考える手助けをしてくれることにある。

ベーコンは、次のようなやり方のほうが
ずっと安全だと主張した。
それは、考えることをまったくせずに、・・・・
より多くの事実を探すことから始めるやり方である。
十分な事実を得れれば、われわれは正しくなれるだろう。

ベーコンは・・・・
まずなすべきことは、
あらゆる迷信を忘れ去ることである。
次に、人々はできるかぎり多くの事実、
観察と理解が十分にできる単純で明晰な事実
を集めるべきである。

ガリレオとベーコン・・・・
迷信は時には正しいこともありうるが、
ふつうはまちがっており、
他方、科学はつねに正しいと、
二人は信じていた。
これが、二人のまちがっていた点だ。
彼らは、科学者はまちがいをおかさないと考えていたが、
それが大きなまちがいであった。

学校で教わったことsにしたがう人々は、
伝統主義者(traditionalist)とよばれる。・・・・
まったく新たに出発し、自分自身で考えようとする人々は、
根本主義者(radicalist)とよばれる。

ベーコンは科学者たちに、
だれでも理解できるような事実、
より多くの事実、単純な事実を注意深く提供するように、
警告した。
そうすれば、それらの事実から真なる理論が
現れたときには、みんながそれを信じるだろう。
そこようにすれば、科学者たちのあいだの口論や
意見の不一致は避けることができ、
科学はまちがいから免れるようになるだろう。

人々はデカルトの主知主義、
すなわち、われわれが何を信じればよいのかを
自分の精神に語らせるべきだというかれの考えを放棄し、
その代わりとして、ニュートンやベーコンにしたがった。
科学者は観察に観察を重ねるべきだ、
とかれらは主張した。

ニュートンの理論では、重力は遠くはなれたところに
作用する(遠隔作用)。
アインシュタインは、これはまったっく正しくなく、
重力は物体から外に向かって光速で進み
直接作用するのだ(遠隔作用)、と主張した。

ポアンカレは、仮説の中には危険なものがあると言った。
「とりわけ危険なものは、
暗黙で無意識のものである。
われわれは知らず知らずのうちに
それをもちいているので、
それから免れることはできない」と。

ファラデーは、エールステッドの数少ない追従者の一人で、
大きな自己不信に陥った。
「全世界を相手に戦っている私はだれなのか」
とファラデーは自問した。

ファラデーは、科学は信念の問題ではなく、
批判的吟味・検討の問題だと感じていた。

ファラデーの時代以降、科学の進歩を望むならば、
子供たちにどのようにしたら科学的になれるのかとか、
開かれた精神をもつことができるようになれるのかを
教えなければならない、
と多く人が気づくようになったからである。

6(84) カシミール3D GPS応用編: 2003.01.29

杉本智彦著「カシミール3D GPS応用編」
(ISBN4-408-00777-3 C2026)
を斜め読みした。

GPSを中心に書かれた本で、
将来GPSを使うようになったら必要だろうが、
今はいらない。
この本をかったのは、
西日本の5万地形図が収録されているからだ。
これで、東北地方を除く、
5万地形が使えるようになった。
今まではインターネット経由だったので、
まどろっこしかったが、
これで少しは砂データベースの
使用環境が改善されるであろう。

2003年1月18日土曜日

5(83) ダ・ヴィンチの二枚貝上: 2003.01.18

S. J. グールド著「ダ・ヴィンチの二枚貝上」
(ISBN4-15-208396-4 C0045)
を、やっと読み終えた。

やはり、グールドはすごい。

私は、根っからのヒューマニスト(人文主義者)であり、
何をさておいても、芸術と自然の微妙にして
知的な結びつきを愛している。
この結びつきは、どちらか一方が勝ってもいけない。
すばらしく多様な世界に生きているわれわれは、
ほとんど100パーセントに近い大自然から
ほとんど100パーセントに近い人工物までもが
醸し出す相互作用の全容を必要としている。

歴史上の大思想家たちが書き残した原典にあたると、
無限とも思えるほど新しいアイデアや発見が
たくさん得られるというものである。

ここに収めたすべてのエッセイは、
モンテーニュ以来の伝統として
エッセイというジャンルをもっともよく定義する
貴重なパラドックスを土台としてる。
良質なエッセイの根幹をなす
身近で正確な細事を持ってして、
それ自体としてのおもしろさを醸し出せると同時に、
もっと視野の広い一般性へと脱線するための
踏み台として機能せしむるというしだいである。

一篇のエッセイを成り立たせるほどの一般性をそなえた
統一的な枠組みに細事を昇格させるにあたっては、
自分が基本的に四つの戦略を採用してることに気づいた。
一、場合によっては、原典を調べまくることで、
新発見が得られる。
・・・・・・
二、たいていの場合、私が報告する観察は
決して未発表のものというわけではないのだが、
あまりおなじみでない話
(よく知られている話の場合もある)を、
これまで関係があるとは見られていなかった
別の話題と対置させることで目新しい文脈のなかに
位置づけることを心がけている。
・・・・・・・・


三、異質な細事を合体させることで、
私の第二のカテゴリーが機能するようなら、
第三の戦略は細心の発掘作業によって遂行される。
合体による解説ではなく、
掘り下げによる解説を目指すのだ。
・・・・・・・・
四、エッセイへの「昇格」は、
細事を報告するに値する一般的テーマへと
統合できるかどうかしだいである。
しかし、場合によって、細事それ自体がその独自の
価値によって単独で取り上げられるほど
魅力的に仕立てられる。

二つを対置させるというやり方が、
人間の精神活動の一般的なあり方
なのかもしれない。

「観察が何かの役に立つとしたらm
それはある見解を裏付けるか否定するかだということが、
どうしてわかってもらえないのでしょうか」。
これはこれまで何度もエッセイで引用している
ダーウィンの言葉である。

われら無知蒙昧の哀れな種族は、
自我を意識して哲学と芸術にふけるという、
進化史上他に類を見ない発明をもてあそぶことになった
最初の生物であるが、
その歩みはじつにのろい、
考え方や描写法としては
もっとも「明白」で「自然」な様式でさえ、
歴史の束縛を受けねばならず、
それを打ち破るのは並大抵のことでhないのだ。
そういうわけで、社会的な文脈からはずれた
解決策が浮上することはなく、
出てくる解決策は、
人間が向上する可能性を規定する、
心と環境の複雑な相互作用を反映したものとなる。

すべての人間は単一のもろい種に属している。
それは一つの生物的単位なのに、
誰の心にもある邪悪極まりない情動により、
細かすぎるくらいに区分されている。

ダーウィンは、デーナに・・・・・
1863年2月20日に返事を書いた。
・・・・・「地質学の記録が
これほどに不完全なものでなければ、
私もそう考えるところです。」

ハクスリーの行動をみたマーシュの言葉
「彼は、まさに偉大な人物の寛大さを発揮し、
はじめて目にした真実を前にして時節を捨て、
私の結論を採用した。」

科学における事実と理論の関係と、
理由は間違っているけれど
答えは正しいという現象である。
理論と事実は同じくらい強力で、
完全に相互依存の関係にある。

理論とは、外部の複雑な暗示に助長されることで
生じる心的構造物である
(理想的な場合は、経験的な実態からの
要請によって生じることもある)。
しかしその暗示は、夢だったり気まぐれだったり
勘違いだったりすることもしばしばである。

ダーウィンの言葉。
「誤った事実は科学の進展にとってきわめて有害である。
往々にして、長く生きながらえるからだ。
しかし誤った見解は、
裏づけとなる証拠があるにしても、
ほとんど害をなさない。
それは、その虚偽を暴くことに、
誰もが有益な喜びを感じるからである」

この構造主義は、
自然の実態を記録している部分も多いが、
大半は脳の基本的な作用様式を反映した
二項対立に基づいて、
時間を変えて統合されたテーマを探し求める。

知られている最初の旧石器時代のアーティストと
自分たちはいささかもちがわない同胞であることに
大いなる満足を覚えようではないか。

私にとって流用の原理はきわめてたいせつなものであり、
些末な事実から大きな一般性を引き出すのが
本エッセイシリーズのトレードマークではある

「ミッシング・リンク」という色あせた決まり文句は、
直線的な進化を前提とした概念である。
・・・・・
それに対して進化の潅木とという見方には、
化石記録が貧弱なせいで空隙とはやふやさだらけ
という点あるにしても、
潅木にただの一つの決定的な「ミッシング・リンク」
というものはありえない。

「斉一主義」というものは複数の意味を含む
複雑な語であり、
そのなかには正当な意味もあるが、
偽りかもしれない意味とものの考え方に対する
制約も含んでいる。

2003年1月13日月曜日

4(82) 「無限」に魅入られた天才数学者たち: 2003.01.13

アミール・D・アクセル著
「「無限」に魅入られた天才数学者たち」
(ISBN4-15-208402-2 C0041)
を読んだ。

アクセルは統計学の研究者である。
無限の面白さを感じ、
無限にとりつかれた数学者であるカントール
を中心に語られている。
本書を通じて、ゲーデルの不完全性定理の意義が
はじめてわかった。
すごいのは、大学の教員でありなが、
このような本を書いているということである。
数学への造詣は深いので、
数学の、それも連続体仮説の研究者か、
かつてそれを専門に研究した
サイエンスライターが、書いたものだ思ったが、
統計学の専門家だった。
アメリカの知識人の実力のすごさを知らされた。

「一と多の問題」は、
「複数の対象がひとつのものである
とはどういうことか?
個々の対象すべてを含む
ひとつの集合を考えることはできるのか?」

極限操作によって得られる可能無限だ
ということを発見したのガリレオである。

代数学は、整数や有理数など、
数えたり、表にしたりできる
”離散的”なものを対象にする。
それに対して解析学は、
関数や、数と数との距離、無理数などの
”連続的”なものを対象とする。

集合論というものは、実はその性質上、
不可避的にパラドックスを抱えた
理論なのである。

デカルトは幾何学のなかに
代数学を持ち込むことに成功し、
幾何学的な図形を数によって
表せることに気づいたのだ。

無限に関する限り、
次元というものには意味がない。
連続空間なら何であれ、
連続体と同じだけの点をもつ。
不加算無限の点をもつのである。

カントールが「我見るも、我信ぜず」と書いたのは、
このときのことである。

数学と哲学は自由であるべきであり、
アイディアの導くところ、
どこにでも自由に向かわなくてなならない
というのがカントールの信念だった。

カントールは、言葉では表現不可能な絶対者
という無限を唯一の例外として、
それ以外の無限を”超越数”、
すなわち「有限を超えた数」と呼ぶことにした。

集合の基数とは、
その集合に含まれる要素を計るものである。
有限集合の場合であれば、
基数はその集合に含まれる要素の
個数に他ならない。

カントールは、自分の見出した無限
-超限基数-に、
ヘブライ文字を使ってアレフと
名づけることにしたのである。

カントールは高い階層の無限に対応する
アレフの系列が存在する
ということ仮定を立てた。

クレタ人エピメニデスの作とされるパラドックスがある。
「私は嘘をついている」。

ワニのジレンマ

ラッセルのパラドックス
「セヴィリアの理髪師」
「グレリングのパラドックス」

ゲーデルはその哲学的資質を発揮して、
本質的な問いかけをするようになっていた。
証明とは何か?

証明と真実とは同じことか?
真である事柄は、常に証明可能なのか?
有限な系は、その系を超えたものに対して
証明を与えうるか?

彼が導いた結論は、
「任意の系が与えられたとき、
その系の内部では証明できない命題が
常に存在する」
というものだ。
つまり、ある命題がたとえ真であったとしても、
それを証明できるとは限らないということだ。
これが、有名なゲーデルの不完全性定理の
エッセンスである。

最大のマトリューシュカというべき全体集合は
存在しないことをかんがえるなら、
そして、決して到達できない絶対者に
思いを致すなら、
ゲーデルの不完全性定理も理解できる
気がするので刃にだろうか。
それは、今いる系の外側にあるもの、
与えられた系より大きなものが常に存在する
という主張なのだから。

与えれた系の内部にいたでは
捉えられない概念や性質が存在し、
それらを理解するためには、
より高いレベルに移らなければならない。
一方、カントールが示したように、
最高のレベルというものは存在しないのだから、
いかなる系の内部にも、
把握できないアイデアや性質が
必ず存在することになる。

数は実在するのだろうか?
連続体は実在するのか?
カントールはその答えが
二つともイエスであると信じていた。

ハレの住宅地区に、
ゲオルク・カントールのブロンズ銘板があり、
一文が刻まれている。
数学の本質は、その自由性にある

2003年1月11日土曜日

3(81) 脳の方程式 ぷらす・あるふぁ: 2003.01.11

中田力著「脳の方程式 ぷらす・あるふぁ」
(ISBN4-314-00923-3 C0040)
を読んだ。
感動した前著「脳の方程式 いち・たす・いち」
の続編である。
前著に比べて、専門的過ぎる部分が多く、
理解しづらいところがいくつかあった。
しかし、面白かった。

「意思を持つということは、
脳の規格が画一化されていないことを意味する。」

「自然界には「全能の神」は存在せず、
目的を持ったデザインは作れない。
(中略)
母なる自然はその偉業を、
二つの基本的技術を駆使することによって達成している。
(1)恒常状態、と
(2)形態
である。
つまり、母なる自然は、
特定環境を驚くべき正確さで保つことと、
機能のための特異的な形態を形成すること、
すべてを成し遂げているのである。」

「DNAには「何を作るか」は書かれておらず、
「どのようにして作るのかの法則」が
書かれているのである。」

「簡単に言ってしまえは、
脳とはどのようにでも使えるのである。」

「その人は、その機能を他の人よりも早く覚え、
かつ、早くこなす。
人はそれを才能と呼ぶ。
(中略)
しばらく同じようなことを繰り返しているうちに、
脳の情報処理の仕方に個体差が生まれる。
人はこれを個性と呼ぶ。」

「ヒトは二足歩行を始めたことで岩後を獲得し、
鳥類は飛行を始めたことで、音楽を獲得した。」

「情報である。
ヒトの運動能力の成熟には
情報の存在が必須なのである。」

2(80) 現代倫理学入門: 2003.01.11

1月8日に神について書いたし、
環境問題について何度か書いた。
このようなことをを考える学問として、
倫理学がある。
そして、現代の倫理に役に立つ教科書として、
ミルの「自由論」がある。
見るの倫理は、
「判断力のある大人なら、
自分の生命、身体、財産などあらゆる、
<自分もの>にかんして、
他人に危害を及ぼさない限り、
たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、
自己決定の権限をもつ」
というものである。
問題が発生したときのために、
可決策を用意ておくことを、
倫理学では、決疑論(casuistry)という。
神に関しては個人的決疑論であり、
環境については社会的決疑論といえる。

社会的決疑論としては、
・人を助ける嘘は許されるか
・10人ために1人を犠牲にできるか
・1人分の薬を10人の誰に患者に渡すか
・正直者が損をしないようにするには
・他人へ迷惑をかけなければ何をしてもよいか
・貧しい人を助けるのは豊かな人の義務か
・現在の人間は未来の人間への義務があるのか
・正義は時代によって変わるのか
・科学に限界があるのか
がある。
また、個人的決疑論としては、
・エゴイズムはすべて道徳に反するか
・幸福の計算法
・判断能力の判断
また、このような決疑論に答えを出す考え方にも
決疑論を用意しておく必要がある。
メタ決疑論というべきものである。
・「~である」から「~べきである」を導けるか
・正義の原理はどうして決めるか
・思いやりが道徳の原理か
などがある。
このような考え方の指針を与えれくれる本として、
加藤尚武著「現代倫理学入門」
(ISBN4-06-159267 C0112)
である。

2003年1月1日水曜日

1 (79) ブッダ: 2003.01.01 手塚治虫著「ブッダ」

(ISBN4-267-01301-2 C-179): 2002.12.15
(ISBN4-267-01302-0 C-179): 2002.12.15
(ISBN4-267-01303-9 C-179): 2002.12.16
(ISBN4-267-01304-7 C-179): 2002.12.17
(ISBN4-267-01305-5 C-179): 2002.12.17
(ISBN4-267-01306-3 C-179): 2002.12.19
(ISBN4-267-01307-7 C-179): 2002.12.21
(ISBN4-267-01308-X C-179): 2002.12.22
(ISBN4-267-01309-8 C-179): 2002.12.29
(ISBN4-267-01310-1 C-179): 2002.12.30
(ISBN4-267-01311-X C-179): 2002.12.31
(ISBN4-267-01312-8 C-179): 2003.01.01
を読んだ。

半月かけて読んだことになる。
一冊読むのに1時間弱ほどかかる。
だから全12巻読むのに、
10時間弱必要となる。
漫画であるから、いつでも、
気軽に読めるから、
自宅でのあき時間を
この漫画の読書に使った。
その結果が、10時間を作り出すのに
半月必要であったということである。
時間とは、貴重である。
そして、こつこつとした積み重ねが必要で、
そして有効であることを
いまさらながら気づかされた。

さて、肝心の内容であるが、
前半は面白く読んだのだが、
後半があまり面白くなかった。
なぜかはわからない。
聖人というものを表現する難しさだろうか。
それとも、万人に適応できる
聖人像はどないからであろうか。
しかし、これまでつづいた
手塚治虫とのつきあいもやっと終わった。
長い付き合いだったが、堪能した。