2002年3月14日木曜日

20 干し草のなかの恐竜(上):2002.03.14

スティーヴン・ジェイ・グールド著「干し草のなかの恐竜(上)」(ISBN4-15-208298-4 C0045)を読んだ。グールドのエッセイはハードだが面白い。そして、欧米の知識人ならきっと面白いと思われる言い回し、引用、比喩などが各所にちりばめられている。それが、完全に理解できないのつらい。でも、欧米人でも、完全に理解できないのかもしれない。それほどの奥深さがあるから、面白いのかもしれない。
面白かったところ。千年紀のはじまりについて。グールドは2000年派。「人々が決着のつかない些末な問題をめぐって喧々囂々の議論を戦わせたいのではにか。それをしないと、その分のエネルギーを、人殺しに発展しかねいないほんものの喧嘩につぎ込みかねないのではないか。そうとでも考えないかぎり、答えの出ない論争に明け暮れてきた歴史を説明できそうにない」
テニソンの「イン・メモリアル」118節より「時間が成し遂げたこの仕事すべてを沈思せよ」
「われわれのまわりに二元性あるいは二分法がありふれていることには、おそらく理由がある。むろん、自然が対を好むということもあるかもしれないが、それ以上に、人間の頭が二分法を好む構造になっているからなのではないか。」
「新しいアイデアが、それまでとは別の観察方法を強いたのだ。「観察が何かの役に立つすれば何らかの見解を支持するか否定するからだ」」
斉一説と激変説の論争の重大な問題
「変化そのものの本質」について。「人間の文化、生物、物理的な世界は、いずれも無限に変わることが可能で、通常はそれとわからないほどの小さな連続的変化を遂げているのだろうか(斉一説的観点)。それとも、大半の種類や組織の特徴はあくまでも構造の安定性であって、変化が引き起こされるのは、たいていは既存のシステムでは対応しきれないような激変的な動乱をきっかけにした、安定した状態から別の安定した状態への急速な移行というまれな出来事に集約されるのだろうか」
「因果の本質」について。「大規模な変化も、日々観察できる現象を引き起こしている原因と同じ、突飛でなく予想どおりの結果を引き起こす変化の単なる単なる拡張なのだろうか。それとも、ときおりの激変が、予測できない気まぐれな要因を地球の歴史に持ち込むのだろうか」