2003年1月13日月曜日

4(82) 「無限」に魅入られた天才数学者たち: 2003.01.13

アミール・D・アクセル著
「「無限」に魅入られた天才数学者たち」
(ISBN4-15-208402-2 C0041)
を読んだ。

アクセルは統計学の研究者である。
無限の面白さを感じ、
無限にとりつかれた数学者であるカントール
を中心に語られている。
本書を通じて、ゲーデルの不完全性定理の意義が
はじめてわかった。
すごいのは、大学の教員でありなが、
このような本を書いているということである。
数学への造詣は深いので、
数学の、それも連続体仮説の研究者か、
かつてそれを専門に研究した
サイエンスライターが、書いたものだ思ったが、
統計学の専門家だった。
アメリカの知識人の実力のすごさを知らされた。

「一と多の問題」は、
「複数の対象がひとつのものである
とはどういうことか?
個々の対象すべてを含む
ひとつの集合を考えることはできるのか?」

極限操作によって得られる可能無限だ
ということを発見したのガリレオである。

代数学は、整数や有理数など、
数えたり、表にしたりできる
”離散的”なものを対象にする。
それに対して解析学は、
関数や、数と数との距離、無理数などの
”連続的”なものを対象とする。

集合論というものは、実はその性質上、
不可避的にパラドックスを抱えた
理論なのである。

デカルトは幾何学のなかに
代数学を持ち込むことに成功し、
幾何学的な図形を数によって
表せることに気づいたのだ。

無限に関する限り、
次元というものには意味がない。
連続空間なら何であれ、
連続体と同じだけの点をもつ。
不加算無限の点をもつのである。

カントールが「我見るも、我信ぜず」と書いたのは、
このときのことである。

数学と哲学は自由であるべきであり、
アイディアの導くところ、
どこにでも自由に向かわなくてなならない
というのがカントールの信念だった。

カントールは、言葉では表現不可能な絶対者
という無限を唯一の例外として、
それ以外の無限を”超越数”、
すなわち「有限を超えた数」と呼ぶことにした。

集合の基数とは、
その集合に含まれる要素を計るものである。
有限集合の場合であれば、
基数はその集合に含まれる要素の
個数に他ならない。

カントールは、自分の見出した無限
-超限基数-に、
ヘブライ文字を使ってアレフと
名づけることにしたのである。

カントールは高い階層の無限に対応する
アレフの系列が存在する
ということ仮定を立てた。

クレタ人エピメニデスの作とされるパラドックスがある。
「私は嘘をついている」。

ワニのジレンマ

ラッセルのパラドックス
「セヴィリアの理髪師」
「グレリングのパラドックス」

ゲーデルはその哲学的資質を発揮して、
本質的な問いかけをするようになっていた。
証明とは何か?

証明と真実とは同じことか?
真である事柄は、常に証明可能なのか?
有限な系は、その系を超えたものに対して
証明を与えうるか?

彼が導いた結論は、
「任意の系が与えられたとき、
その系の内部では証明できない命題が
常に存在する」
というものだ。
つまり、ある命題がたとえ真であったとしても、
それを証明できるとは限らないということだ。
これが、有名なゲーデルの不完全性定理の
エッセンスである。

最大のマトリューシュカというべき全体集合は
存在しないことをかんがえるなら、
そして、決して到達できない絶対者に
思いを致すなら、
ゲーデルの不完全性定理も理解できる
気がするので刃にだろうか。
それは、今いる系の外側にあるもの、
与えられた系より大きなものが常に存在する
という主張なのだから。

与えれた系の内部にいたでは
捉えられない概念や性質が存在し、
それらを理解するためには、
より高いレベルに移らなければならない。
一方、カントールが示したように、
最高のレベルというものは存在しないのだから、
いかなる系の内部にも、
把握できないアイデアや性質が
必ず存在することになる。

数は実在するのだろうか?
連続体は実在するのか?
カントールはその答えが
二つともイエスであると信じていた。

ハレの住宅地区に、
ゲオルク・カントールのブロンズ銘板があり、
一文が刻まれている。
数学の本質は、その自由性にある