2003年2月18日火曜日

13(91) 新哲学入門: 2003.02.18

板倉聖宣著「新哲学入門」
(ISBN4-7735-0099-9 C0330)
を読んだ。
仮説実験という考えを自分の哲学として
わかりやすく解いた本であった。
内容的には、示唆に富んだ本であった。
しかし、わかりやすく書きすぎて、
深みがないように感じた。

「英国では、
「自然現象の中でもっとも自然観に関わるような
理論的に興味のある事柄を扱う学問」が
と呼ばれたのです。
だから、同じ自然科学でも、
科学や生物学や地質学など、
事実の記述が中心だった学問は
と呼ばれることは
ありませんでした。 」

「流行の後を追う生きからがいやなら、
大科学者の生きかたを真似したほうがいいと思うのです。」

「「必ずしも実験的手続きを経ずに、
すべての問題に答える学問」
-それは哲学の特徴でした。
哲学の魅力はそこにあったのですが、
また、その弱点もそこにあったのことを
忘れることはできません。」

「実験の本質は、自然であれ社会であれ、
対象に対する 正しい認識を得るために、
対象に対して、予想・仮説をもって目的意識的に
問いかけることにある」

「いつしか「エクスペリメント(experiment)=試験」と
「実験道具の操作法(manipulation)=実験」とが
混同されてしまった。」

「自然や社会の認識をふかめるためには、
自分自身が行動を起こすことが重要なのではなく、
結果がわかる以前に、自分たちの予想・仮説を
はっきり提起しておくことが決定的に大切なのだ」

「「実験と実践の違い」は、
「実験」は、「審理が確定していないからうあるもの」
であるのに対して、
「実践」は、「ほぼ間違いのない真理として確信している
理論に基づいてやるもの」という違いがあります。」

「実験は真理の基準ですから、
「実験が間違う」などということはあるはずがないのです。
間違えるのは、人々の予想か理論か、
実験操作だけなのです。」

「いくらたくさんの経験的事実を集めた理論でも、
それは<もっともらいしい解釈>つまり<仮説>に過ぎない。」

「一見馬鹿らしそうに見える理論も<ひとつの仮説>として、
今後の経験=実験によって確かめて見なければならない。」

「科学者たちは、「いくつかの仮説のうち、
どれが<すでに知られている事実に
もっともそうに説明したか>ではなく、
どの理論が<これまで知られていなかった事実>
とよく合うか」によって真理かどうか
判定しなければならない、
ということに気づいたのです。」

「経験事実というのは、
「いろいろな事実や空想をもとにして仮説を立てるときに
<すでに知られているいる事実>」を言い、
実験事実というのは、
「その仮説の正しさを検証するための行為の結果
初めて知られた事実のことで、仮説を立てた段階では
<まだ知られていない事実>」のことをいう、
と整理して考えるのです。」

「新しい理論はそれが革命的なものであればあるほど、
その承認の前に多くの抵抗があるのがふつうです。
いや、多くの抵抗がある発見こそが「革命的な理論」と
いえるのかも知れません。
理論の中ではどんなに重要なことでも、
はじめからすんなり認められたよなものは、
革命的な理論とはみなされないのです。」

「現実の生きた科学は党派的で階級性を帯びていることも
少なくありません。しかし、科学上の真理は
実験のみによって決まるので、
党派的・か危急的には決まらないものです。」

「科学はいつも最終的な真理を実験によって決めたいと
願っていても、実際にはなかなか
党派性や階級性を脱しえない」

「「物事を哲学的に考える」というのは、一口に言うと、
「ものごとを根底から考え直すことだ」
ということができます。」

「科学は、すてに解決できたことだけについてにしか
教えてくれませんが、<森羅万象の学>であるところの
哲学は、「百パーセント確か」ということを
教えてくれない代わりに、どんな難問でも、
解決するための考え方だけは提供してくれるのです。」

「「自由に考える」とは、「新しい原理に囚われて考える」こと」

「ある考えに行き詰ったら、
もっと普遍的な原理にもどって考える」