2003年2月28日金曜日

17(95) 五〇代、大学で教養する: 2003.02.28

清水三喜雄著「五〇代、大学で教養する」
を斜め読みした。

私が在籍する大学に50歳になって
社会人入学をしたひとが書いた本である。
道庁を50歳で退職して、大学にきたのである。
共感を覚えるものがある。
なぜうちの大学を選んだかは不明である。
しかし、教養をしたいということはよく理解できた。
そして、大学の講義や試験を最大限に利用して、
教養を広げている感じがした。
では、この教養をどうするのだろうか。
あるいはどう発展させるのだろうか。
その点が気になるのだが、
それは、成果をもとめるのは性急すぎるのだろうか。
教養とはそんなものではないのだろうか。
では、なぜ、50台で、仕事をやめてまで、
まるで隠遁をするかのようにしてまで、
教養に執着するのだろうか。
私も、旧制高校時代の教養人にあこがれる。
そして隠遁者のような教養人にもあこがれる。
しかし、それは、望んでも詮無きことである。
現在の自分のおかれた立場で、
できる限り高みを目指して 教養人になること。
その方が価値があるのではないだろうか。
あるいは、それが現在の教養人の
あり方ではないのだろうか。
隠遁者のような教養人は、
現代社会でどう振舞えばいいのだろうか。